2015年9月26日土曜日

光学的革命論

概要


1章 光学的革命論

2章 仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪(スペクタクルの社会及びスペクタクルの社会への注解の改題)

・光学的革命論
 
 光はいまだに何も発見されていない。個物(存在)の実在性をアリストテレスの理論哲学は世界の中で経験させる事物の自然本性的な生成発展と活動の有様として、「現実」を認識として肯定したが、これは事実上、「認識され得る」光を第一質料として、すなわち実体を空間と時間概念によって個別化することが出来るという原理にもとづき、可能態という現実に存在出来得るものを対象として定義し、一定の種的本質を保つものとして、個物(存在)を知性概念として構成するとして証明したものである。つまり、事物の本性のうちにある普遍などというものは無であり、存在しないものとし、もし、普遍が、無でなく、何か存在するものだとすると、個物(存在)の後にくるものであり、知性のうちに概念としてあるという論理であり、私はそれを威信的で虚言めいた言い草であると考える。それらは確信におけるリアルなことではまるでなく、個物(存在)を知性概念に転用した凡庸な例にすぎず、アクチュアリテを思念そのものに転化することによりむしろ認識自体をより妨げたと考えられる。それゆえ、知性として認識され得るものとして論理的に理性的に個物(存在)を諸々に感覚される五感に応じて、可視的、論理的に知性概念をただそのものとして定義化したものにすぎないのであるから、まず、それを超えたものとして、あらゆる個物(存在)を認識出来ず、在ることも全く証明出来ない、「まだ何も見えてないものとして」、まず私は考えを始める。

光は感覚を本在的原因とするのではなく、ただそれを知るためのきっかけとして持つにすぎない。それゆえ、本質的に突き詰めれば空間概念に遮光するにすぎない感覚に縛られることはなく、形而上学がそうであるように、実在である限りの実在としての光をその本質的対象とする。そうであるから、感覚による抽象的普遍に向かうというよりも、直接に把握するための光の直視を目指すことが肝要となる。アリストテレスの理解は第一質料による形相の感覚の限定に生ずるような、普遍の決定的欠如形態にすぎなかったが、スコトゥスの言うように、「存在者の究極の現実性」としての「このもの性」という積極性を持つものである。これら普遍的実在の究極の完成が、直視の基盤として、光の特異的還元を、被造物世界の偶有性からまず無限の可能性へと誘うものであるだろう。

「個物を知ることは不完全性ではなく、…われわれの知性は個物を認識しないと言うならば、これは現在の状態から出てくる不完全性であると私は考える。(ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)」

すなわち、スコトゥスが定義するように個物(存在)の不完全性がまず認識の前提に置かれねばならない。如何なる哲学的言説があろうとも、個物(存在)は五感では認識されず、理性的及び論理的思考の遥か上をいくものとしてそこにあり、知性概念では実体そのものの実在はまるで明らかにされておらず、我々はそれらを本来の意味においては「認識する」ことも「手に取る」ことも「見ること」も出来ないのである。

 つまり、仮に可視的な個物(存在)がすべて見えている以上存在するものとし、不可視的な個物(存在)がすべて見えていない以上、存在しないものとするならば、個物(存在)はすべて存在するか、すべて存在しないかの単純な二元論となり、可視か不可視かで形相上として問題の定義を当て嵌めるだけのことになってしまう。また、知性概念を認識上の前提とし、個物(存在)を認識可能か、認識不可能か、可視か、不可視かで問われるとするならば、その本質上の存在の後にくる存在を絶対的に支える、第一実体(私が言う第一実体とはアリストテレスが用いた意味での使用ではなく、原初から認識を支える絶対的根拠となるものとして、いかなる欠如もない過不足なき完全実体という意味で考えて頂きたい。)が必要不可欠であり、それをまずは証明しなければすべて論理矛盾となってしまうであろう。認識とは「思念と形象(すがた)の一致」であり、非認識とは「思念と形象(すがた)の不一致」であり、可視とはすなわち「形象(すがた)と思念との一致」であり、不可視とは「形象(すがた)と思念との不一致」にすぎないのであるから(これらの前後関係は最初に知覚しているものの順と考えて頂きたい)、それ自体人間の視覚及び思准を主体とした極めて曖昧模糊なただの表象上の区別にすぎず、思念の内的及び外的状態によって形象は自在に変化を伴う以上(事実、知性概念には個体差がある。)、存在及び非存在は思念それ自体のみが支える根拠となるのであれば、変化を伴うものとして必ず問われるのであるから、それ自体を比較対象とすることは存在が可変的で個体差もあり、確かでない為に不可能である。すなわち、見えているか見えていないか、知覚出来るか、知覚出来ないかは全く認識上の意味においては予め外に置かれねばならず、存在の判断基準とは全くならない為、存在のその形象(すがた)とは視覚やそれに派生する思念及び知性概念では全く根拠にならず、第一実体と本質を何ら照らし合わせるものでない。つまり、形象そのものを超えたところに光の実在があるものと私はまず定義する。

「太陽の光が他の天体を隠し、太陽が出ているときには他の天体が少しも肉眼に映らないとするなら、他のすべての霊的光よりも比較にならないほど明るいかの光が、他のすべての霊的光を凌駕して、その光の下では他の光は何の効力ももたなくなるということがなおさらありそうなのだが、どうしてそうならないのだろうか。(ロバート・グロステスト)」

 グロステストがこの疑問に言及しているように、肉眼による視覚は極めて曖昧なものであり、その環境下に応じて見えているはずのものが見えなかったり、またその逆も然りである。光は特異性を持つ唯一普遍の第一実体であるから、超越性の最中照らされ、あらゆる感覚下においても、その存在の確たるものを何も得ないまま、実体の確信的根拠は肉眼及び知性概念においては何も確立されない。つまり視覚及び知性概念、脳を基体とするすべての認識は絶対的に何らかの実在が隔絶されたものとしてある。私はそれを神秘という単純な事象で片付けたくはない。例えば、強く照射されるならば星は全く見えないだろうし、何も照射されないならば、全くの暗闇であり、空には何も見えることはない。その環境下において可変的にその形象は姿形を一変させたり、消滅させたりするし、時に光は出来事的に降臨し、時に光は不滅する。つまり、時間及び空間概念上の定義を全く無視し、実在を明暗へと二分させる超越観を持つ唯一のものが光である。

 このように、第一実体である「光」はあらゆる存在者を超越すると同時に光はあらゆる存在者を覆い隠しているものとなる。事実、視覚光線は可視的形象が太陽の本性とよく似た光る発光実体とされており、それの放射が外界の光る物体からの放射と結びつくことによって視覚は形成されるが、それが完成へと至らないのは個物(存在)の実在が何であるか脳を基体とする以上誰によっても定義化されない(定義は無論あらゆる哲学者(アリストテレス然りハイデガー然り)によって試みられているが、その本質、実在そのものの認識には至っていないということ。)という哲学的事実にもとづけば自明の理であり、何らかの光に体する認識の隔絶がそこに介在していると考えるのは至極真っ当で明らかである。この意味で、光が現在においても何も明らかになっていない以上、光は秘密裡のままにそっと無限の中で息を潜んでおり、我々の感覚ではそれを捉えることは不可能に違いないからだ。まず、認識上の定義で最初に光を掌握しているとすることは無知であることを一番に表明することとなる。したがって、その被照者である個物(存在)も絶対にその本質の実在は認識され得ないからである。現在、個物(存在)は光を通して、事実上認識され得るものとしてあるが、それは脳という基体の偶像によって(事実、誰も生きながらにして脳を手に取ることは絶対に出来ないのであるから偶像である。)患わされた認識の病的症例とも言えるし、いわばすべてを可視化し知性概念とせねばならないという科学的及び哲学的命題に取り憑かれ、所有願望や知性欲に自惚れ、失墜した思念内部にある認識上架空の「自己承認のみの世界像」を勝手につくりだしたとも言え、その意味においてしか個物(存在)は認識されておらず、言わば個人それぞれが認識する架空の「自己承認のみの世界像」(脳を脳においてのみ、思念を思念においてのみ、その是否を問うという意味で)を前提とする。

「マルクスの理論は本質的に科学的思考の一つの彼岸であり、そこでは科学的思考は乗り越えられたものとして保存されているにすぎない。「我々はただひとつの科学しか知らない。歴史という科学だ。」ドイツイデオロギー
 
「歴史を科学的に基礎づけようと望むブルジョワジーの時代は、融通無得なこの学自体が歴史的にはむしろ経済によって築かれたことを無視する。その逆に、歴史が科学的知識に完全に依存するのは経済に限ってのことでしかない。ユートピア主義者らの科学観は、現実に存在する一つの状況の中に、さまざまな社会集団がさまざまな利害を持ち、その状況を維持するためのさまざまな力や、さらにまたそれぞれの立場に応じたさまざまな形態の虚偽意識を認識するにはいたらない。したがって、科学そのものの発展が、多様な要因から生じた社会的需要、それは科学に認められることだけではなく、科学が追求しうることまでも選択する、によって大きく方向づけられてしまっているのにもかかわらず、彼らの科学観は、その歴史的現実のはるか手前にとどまっているのである。依然として科学的真理の提示様式にとらわれているユートピア的社会主義者は、はるか以前の段階の社会が真理を認める際に示したように、この真理を純粋な抽象的イメージに従って理解する。「スペクタクルの社会」

すなわち抽象的イメージにすぎず科学は何ら実在を確立するにはあたらない、歴史的現実の遥か手前にある自己承認の科学観はすべてを所有し、認識し、概念化せねばならないという科学上のユートピア主義にもとづく幻想の理想観念から発しており、主体など火の中にも水の中にもどこにも無論地の上にも確立されず、思想をただ理論的承認するだけの認識上の欠陥がそこにあり、経済に特化すべくそこに歯車として予め組み込まれた幻想的産業機械が編み出した偽の正当化を承認し無意味に続けるだけの机上の産物にすぎない。科学はもはや世界を理解したり(そんなこと元々不可能だったが、科学は権威の一機関として経済と癒着するようにまでなった以上、理解することは社会を続ける為の必須用件である。)、世界の何事かを改善することを求められたりはしない。科学に求められるのは、起きていることを瞬時に正当化し、空論にすぎない安心を広めることだけである。したがって、科学観にともなってのイデオロギー化の到来は確証でもなんでもなく常に誤ったかたちの幻想として確立されるだけである。アントニオ・ネグリの言うように「その科学がいかなる最高度の段階を想定しようとも、付随した原因から発して、諸現象の一定の総体を説明できる完成された至上の科学などどうやっても構成できない」のは明らかであり、また、アントナン・アルトーも、「科学技術に従って人間の病理学をつくったのは反キリストとその悪魔どもである」と主張する。

 このような科学的認識に伴い、光がまだ何も発見されていない以上、我々は何も発見していないし、手にしていないし、彼らが手にするとされる「自己承認のみの世界像」はまるっきり的外れで無知な認識の瓦礫の山と化している、そのような科学的溶液によって酸化された都市の廃墟の視覚像はあらゆるところに見え隠れし、彼らはものを発展するという名目だけのユートピア的理想観念から患わされる表象的実体崇拝(ただそこに見えること、概念のみをその本性とする)に取り憑かれ、それらを忙しなく満足げに破壊したり、構築したり、無意味な略奪と戦闘、領地内で奪ったり奪われたりを繰り返し、国家においても、個人においてもそのような相互関係内に歴史の始まりから永久に捕われており、もはや経済と同一化した政府までもが介入する以上決して認識の隔絶から抜け出すことが出来ない。その個々の個物(存在)の認識障害は社会を優位に保たせ、存続させるためだけの侵略的俗物動物を如実に現す実態そのものとも言えるし、社会とはそのような認識障害の病のなかに常にあり、危うく、不均衡に成り立っている。それゆえ、彼らは永遠に何も発見することも、何も考えることも、知を探求することもないだろう。

 それゆえ、彼らが確かめられ得るとする認識上の個物(存在)とは無論のこと偶像的で表明的表象(ただそこにそのときだけあるにすぎない、すがた、かたち)にすぎず、個物は個物ではなく、事実としては常に湾曲化され認識され得ない可変的で偶像的な「仮象実体」として常にそこにある。それは時代が進むとともに人間対人間の関係、言語対言語の関係すらも飛び越えて、あらゆる思念や残余を電子ネットワーク上に無作為に乱立させ、個人間においてもその個物(存在)の共同体主義、文化均質相対主義による個人のネットワーク上での「再領土化」までもが進み、時代が進むごとに世界はより複雑化された未完全なものとしてあり、そのすべてを細部にわたって理解するのは極めて困難である。
 
 つまり、第一実体である「光」が何も明らかにされていない以上、個物(存在)の認識は現在においても「錯誤されたままである」とその意味でまず理解されねばならない。存在者である前、創世記では、内なる太古の、存在者の源泉である、すべてを照らすものとして、絶対的至高者である「光」が最初に存在した。まずはじめにその光があった。その光を解剖し仲介することにより本来の個物(存在)が明らかとなるとし、私はこれを絶対的命題であると考える。

 光を照らされたあらゆる存在者は、同時に光によって地に墜落した。おのれの力のみで呼吸することもままならなくなった。容器の中で窒息したまま、光は透明な生殖器を海の始まりと共に完全に無化させ、不完全なものとさせ、重力に身を任せ光年を旅し、空間を何ら欲することなく、ユートピアを捨て存在に反吐をもよおし、無意味に増殖し、度重なるブラーした「仮象実体」は不愉快に感覚を邪魔し、そもそも同じ場所で息をしてすらおらず、 光が相互反する彼岸で溺れそうになりながら、光を深海から、沈まぬ波紋を通して抽象性の高い「偽イデア」のようなものとして見ているにすぎない。そこには大きな認識障害の壁が立在している。スコラ学者ウイリアム・オッカムの神の絶対的能力を個物(存在)認識論に転用すると、

「第二次的な原因の媒介によって神が原因とするすべてのものを、神は神自身によって直接的に生み出すことができる。」「ウィリアム・オッカム」

個物(存在)はその普遍的本質において、先行する自らの決定やはたらきによっても拘束されず、あらゆる個物(存在)の精神のうちには、創造の原像となるような普遍的なイデアは存在せず、普遍的本性は確定されない、したがって、認識され得る同形質の実体であるイデア、すなわちプラトンのいうところのイデアの善の一牲は、個物(存在)の認識の錯誤が始まった発端の事件であり、悪の一性の種を植えつけられたに違いないと私は考える。これは実質的に、生そのものに超越的な善の一性という大義名分を与え、その普遍観をもとに生を掌握しようと試みたのであるし、魂の不死にもとづく善の根源的実在はイデアなるものによって真理を知るために、人間には本性的機能が備わっているとしたが、それは言わば偽の目を用いて観念的に善の知恵を構築したにすぎないのであるから、確たる本質など何もなく、真理を知る為の精神的本性は何も完成されておらず、イデアの認識とは光を全くのくらやみで見つめることにすぎないから、プラトニスムの始まりから既にすべての生は偽造されているとまで言えてしまうのではなかろうか。

 そのために、光は個物(存在)の「このもの性」を完全に葬り去り、夭逝し、息を絶つ、その地においてはもはや、骸骨を拾うが骨はない、海を拾うが水はない、器官を拾うが肉体はない、つまり認識を阻む大きな容器の中に閉じ込められ、存在しているのは確かであるが、誰も拾うことも、見ることもできない、不毛極まりない絶対的な認識の断絶があり、当然の帰結として、誰もが光の見えない盲目者として存在しているのであるから、個物(存在)どうにかして認識しようと、我々は親を探す子供のように本能的に本来の光を例外なく求めるのである。我々はその意味で常に「不完全存在」として生存している。

 私もまた前提として光を見ることの出来ない存在者であるから、同時に絶対に光に遭遇し得ない「不完全存在者」である。

「なぜならもしすべての認識は存在者の認識であり、存在者をその限界としているのであれば、すべての存在を超えた光は、すべての認識をも隔絶している。」「神名論」19節 ディオニシオス・アレオパギテス)

 光は或るひとつの来たり(降臨)であり、先行するさまざまな言説を中断させるためにあるだろうし、到来し、出来するためにあるから、特異的な普遍性をその性格とする「出来事」である。私も同様に認識を隔絶し、星雲を彷徨う、目を開けてもそこに光はなく、目を閉じてもそこに光はない、だが私は光を発見出来ないが、本来の光を誰よりも熱望する、これはひとつの光の解剖学的実験を通して実践において、私は仲介しようと決意した。(勿論、私だけが例外というわけではない。無論すべてのものは如何なるかたちであろうとも光に憧れる。シュトラスブルクのウルリッヒが説明するように、或るものは知性的憧れを、或るものは感覚的欲望をもって、或るものは生きようとする自然の働きによって、或るものはただ存在に与るための適性によって。)否定的な言説から肯定の真理、光学的輪郭を浮き上がらせる、それは聖パウロがユダヤ人なる使徒としてエルサレム、ローマやアテネの地で悪しきソフィストたちやストア派やエピクロス派の学者たち(パウロは古代アテネの最高法廷アレオパゴスの真ん中に立ち、死者の復活についての大演説をぶったが、無視され、彼らは爆笑し、立ち去った。その後、皇帝ネロはキリスト教徒を迫害したし、無論、その断罪の対象にはマルクス・アリレリウスやセネカも含まれるだろう。)を告発したように、まだかつて誰も認識出来ていない第一実体である光を少しでも認識することを可能とするために私はそこに足を踏み入れなければならないであろう。実在性の沸点に苦しんで新しい肉体を発見した(器官なき身体)、アントナン・アルトーのように、事実誰であれ実在の隔絶など認めはしなかったのだから!アルトーは「ブルジョア世界はかつて一度も生命を認識せず、知っていたのは物質だけだ。」と叫んだが当然誰にも理解されなかった。(アルトーはシュルレアリストだった(まさか!)ガストンフェルディエールのような病理学的精神医学者たち(そこにはジャック・ラカンも含まれるだろう)を告発した!!)

 もしその光がもどってくるようなことがあったらまず一番に私に知らせて欲しい、きっと(彼)が幻の海の向こうへ行ったのであると思うから。どのみち、私はすぐに死ぬし、例え光が戻ってきても、私は結局、意味もなく死ぬだろう。そして(彼)だけは生き残るだろう。

 それは私がこれから知るであろうはずの磁力を相対化した反極性の洗練された狂気の極地であり、そこであらゆる物体認識の即物性を光のメスで両断し、そのプラスマイナスの歪曲線上にある陳述台の上で(X軸、Y軸の接点である0地点のような始点に(誰かが)到達したことはかつてあったのだろうか?真っ白な闇を歩きながらも光は何と遠いことか!…時折、照射してくる光…白の幻滅は何とも眩しい!)ひとり革命を叫び、宗教裁判大審問的な解剖を行い、絶対的な第一実体であるその発端の「光」の輪郭を私はどうにかして仲介せねばなるまい。それはロゴスを葬り去った後の魔術的要塞で流れ星を見るように、或いは言葉をあやとりのように紡ぎながらどろどろの汚物を吐き出しながら甘い砂糖壷を発見するように、私にはその眼は何かはっきりとは見えない、その眼の色は何も見えない、幻の眼をもつ(彼)にならば(光)は見える。

(光)とは一体「誰」なのか?
(光)とは一体「何者」なのか?
(光)とは一体、何を「する」ものなのか?

(光)とは「白痴である」と同時に「すべてを知るもの」である。
(光)とはあらゆる存在者の源である。
(光)とはすべてを照らし、すべてを明らかにするものである。

「インド人の中にバラモン教徒のなかに、哲学的思索に耽る人びとのひとつの異端があり、彼らは自己充足的な生活を送り、生き物やすべての料理した食物(を食べること)を慎んでいる。彼らは、神は光であると言う。それは、われわれが目にするような光でも、太陽は火のような光でもない。そうではなくて、彼らにとって神は言述である。それは明晰な音声で言い表せるようなものではなく、認識(グノーシス)の言述であり、それによって賢人が自然の隠された奥義を覚知する、そのような言述なのである。(ヒュポリュトス)」

 (光)を見つめること、それはひたむきな愛の垂直性であり、そうやって我々は漸く完全存在として本来の姿を取り戻す可能性が初めて生まれるのである。私はいかなる場合があろうともその行いを何よりも賞賛する。時にあなたの美しい純粋さが、あなたの真理の探求へと向かわせる心が、眼と色をきらびやかに輝かせ、水晶のようになり、やがて思考の一切が失われ、身体の内乱状態を引き起こし、実在性の沸点において爆発させ、蝙蝠傘が解剖台の上でミシンとの不意の出逢いを果たすように美しいと息を呑むだろう。(ロートレアモン)、或いはすべての感覚の乱調によって未知なるものに到達するだろう(ランボー)これらは同一に「見つめることを続けた」帰結の美しい、千里眼を持つものたちの実証例であり、時に真なる芸術は原罪の壁を飛び越える。事実、これらの実証例においてしか私はまだものを一度も見たことがない。

「イエスは自分の手を引っ込めた。彼の動きは子供じみて女性的な自尊心によるものだった。((おまえたちときたら、奇跡を「少しでも」見なければ、ちっとも信じないのだ。))ランボーによる福音書より」

ランボーの言うように、女たち、男たちはかつて預言者たちを信じていたが、「見ること」をやめた。一切「見るもの」を何も信じなくなったし、拒絶し、彼らに何万年にもわたって取り憑いている「悪魔」は施し物が確実である場所にしかとどまることはできないからである。男たち、女たちは愚かにもこうして完全に眼を捨てた。
 
 あなたはいつの日かその眼を拾い、躍起になり、スピノザのようにその眼を磨きあげるだろう。そして、最中、一瞬、空が光り真っ白に透明になるときがあるだろう。そこにある絶対的な「無」。エックハルトが言うように「創造されたものはすべて「無」である。」し、またアルトーが言うように「私が創造したものは、すべて破壊されたままである。」から、信じるも信じないも、空白で空虚な、足も手も、なく、そこには白だけがあるだろう。あらゆる「無」から、あなたは始め、あなたは一体「どこから」きて、「どこへ」いき、「何を」発見するだろうか?

 類い稀なる知の蓄積によって、或いは知の実践によって、超越した空間上で照明の設置を密かに行い、定義づけ、解剖されたその一粒、一粒から光の粒子を拾い集め、ここに流れることなく留まり続け、あなたは第三の眼を発見するかもしれない。そこであなたは思う、(光)はいずれは間違いなく帰ってくるに違いないと。私もあなたと同じく(光)を帰還へと導くことに全精力を注ぐだろう、その麗しい洗礼、眩い啓示、あらゆる物体、存在者たち、あらゆるロゴスは本来の光を待ちわびている、鳥が鳴くが、その鳥の姿は発見出来ず、何も聞こえない、何故なら森は常に沈黙に満ちているであろうから。表象装置のコギト=「死んだ眼」(自らの眼から死んだ人間或いは動物の眼を通すと何が見えるのだろうか。おお、デカルトよ。)、始点はあるが終点が決して「見えない」屈折光学、幻の眼で(光)を見つめ、唯一至高者の(光)を発見し、あなたはその旅の途上で極めて明瞭な一個の死体を発見するだろう。どうしようもない、どうにもならない、きっと蘇生することのないだろう一個の死体を見つめることから始めねばなるまい。

「イエスは言った、世界を知ったものは一個の死体を見つけた、その一個の死体を見つけた者、世界は彼にふさわしくない。トマスによる福音書より」

「もしも足が、「私は手ではないのでからだから(生じたの)ではない」と言ったとしても、そのゆえにそれがからだから(生じたの)ではない、ということになるだろうか。また、もしも耳が、「私は目ではないのでからだから(生じた)のではない」と言ったとしても、そのゆえにそれがからだから(生じたの)ではない、ということになるだろうか。もしもからだ全体が目(だけ)だとしたら、聴覚はどこにあることになるのか。もしも(からだ)全体が聴覚(だけ)だとしたら、嗅覚はどこにあることになるのか。しかし今や(現実には)、神は、死体を、それもそのそれぞれを、ご自身が欲せられたようにからだに置かれたのである。もしもすべてがひとつの死体であったとしたら、どこにからだはあることになるのか。(コリント人への手紙)」

一個の死体は一個の死体としてその不全的な世界の循環機能を保ち続けている。
世界とはその不完全な秩序を保ったまま、その悪魔性の名においてあらゆる存在者を罰し続けるものである。末世は既にあらゆるところで預言されている。世界にふさわしくない(彼)だけが唯一原罪の壁を飛び越え、光を発見することになるだろう。

「真理の透明な光の下で自らを直視すると、自らを非相似の領域の内に見出し、悲惨を嘆くことにならないだろうか。ベルナルドゥス」

ベルナルドゥスの言うように光の直視の下では我が醜さを余計晒すことになるだけだろう。それ故に、私が出来ることはただ他人の光を立て仲介することだけである。

私とはその不毛な地で本来の光を仲介させる使命をもったものである。
誤った光を覆すものとして、正しい光の仲介者として、(光)を甦生へと導かねばならない。(光)を正しいところへと誘うことを私は目的とする。

「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。
かつてあったことは、これからもあり、
かつて起こったことはこれからも起こる。
太陽のもと、新しいものは何ひとつない。」
「コヘレトの言葉」

現実にいるのかいないかも定かではなく、実在性の幻のステッキを掴み、その幻とは、「私が私であること」をこれからも決して承知しないであろうし、私とは常に失われたままである。私は実在性の錯乱状態を腹の中に飼い、光に当たることを欲し、本来の姿を熱望し続け、幾つかの夢も見た。また、夢は現実をすべて撃ち抜いた。私の肉は悪魔に噛み千切られ、拳銃で頭を撃ちぬくことも考え、あらゆる実在を拒み続け、私は私の実在を内部で自殺させることを望む。何故なら、私の至福とは自らが存在しないことを明らかにすることであり、私が世界のどこにも存在しなくなることを証明することであり、そうなるや否や、いかに外部から飛来され、攻撃されようとも、私は照らされることも照らされていないことも細部に渡って明らかとなるのであるから、私は一切の傷を持たないものとなる。もしそうなったならば、未来の摂氏線の上でようやく光の仲介者としての任務を始めることが出来るであろう!

果たして、一体何が「照らされ」、何が「照らされていない」のか私はまずその光の隔離をもとに仲介の解剖学を始める。瓦礫の山の上に十字架を突っ立てて、避雷針のような役割を果たすこと、あらゆる個物(存在)を根城にする輩が操る火(造物主)を絶対的照明の名において吹き飛ばすこと、光の発生を発見する最初の人類を静かに生の歩行へと導くこと。

これらの命題をもとに、私は光に接近する。道は何と険しいことか、あらゆる造物者に邪魔されるであろう、グノーシスの宇宙観においては「大気には火が煮えたぎっている」のであるから、なかなか光など照らしてくるはずもない。そのため、光の仲介の為には、実在的なものが確実であるものとの類的差異を入念に積み上げ、練り上げなければならないだろう。 神が遠いように、光も遠いからであり、神秘を求めることは神秘を最も遠ざけることとなる。私が考えるのは、神秘に委ねられ捧げられた崇拝などにはあたらず、取り憑かれた迷信や信仰、あちこちで積み上げられた倒錯(ラカンは塵の山と言った)、偶像崇拝などではなく、むしろ、知を累積し、差異化を葬り、分析し、相互反する若しくは相互影響下にある状態へと赴き、ある地点において調和させ、見紛うことない「一なるもの」を発見することにより、光を仲介する可能性を生むことだけであり、いかなる聖なるものも、超越性そのものも、知を探求する材料とならない限りは重点には置かないものとする。その意味で私にとっては信心も不信心もなく、何の信仰者ではないと先に言っておく。あるのは私にとって信じるに値すべき知であるか否かであり、学術的なものも無論参照はするが、それら体系そのものにとらわれたりは決してしない、むしろその価値を高めるといった関心よりも、行為のための時宣を重視するから、反哲学的兆候すら帯びるだろう、どんなことでも本当だとは明白に認識しない限り、決して私は本当とは受け取らない、はっきりと紛れもなく姿を表すもの以外のことは何も信用出来ないからだ。大切なのは体系でも大全でもなく、切断の言を喚起し、それらを極めて透明性の高い一点のヴィジョンへと導くことであり、それはまさに聖パウロの言うような、「現在、此処、そして永久に、或るひとつの確信」であるに違いないし、「すべて開示されるものは光である」からだ。私は未知なるヴィジョンを発見するために生まれた知の感覚論者であり、そこへと誘う文体(スタイル)にむしろ重点を置くため、セリーヌが言う意味で極めて実践的で、行動的な文体論者である。私は戦闘的な幻視者である聖パウロやアルトーのような他を鑑みない自説の確信的啓示から発する情熱を何よりも歓迎し、賞賛するだろう。彼らが私にいかなるかたちで創出或いは飛来しようとも疑いがなく受け入れることが出来るし、常にそのヴィジョンは現実に先行しており、その現実以上に現実そのものであるに違いないからだ。



 光の解剖実験を行うにあたってまず、光をその性質上において、大分するならば、光は「仮象のみを照らすもの」と「無限なるものを照らすもの」の二つに分けることが出来る。前者は端的に言えば、仮象的であり、仮象とは形像(すがた)そのものをある認識が固定化された状態におくものであり、存在に至ると確信させるような根拠なく、すがたそのものをただ物質上の便宜的な認識において照射する光であり、従って可変的であり、偶像的である。後者は新たなタイプの主体に属する一なるものであり、ある独立した出来事の普遍性に基づき、出来事そのものを一変させ、ある新しいタイプの主体をもった無限なるものを照らすものとし、統一性をもつために普遍的である。それらは端的な意味で換言するならば、仮象性と無限性をそれぞれに照射する性質を孕んだものであり、大まかに仮象性をその属性とする事実上の物質的な意味において「認識されうる光」と、無限性をその属性とするある新しいタイプの主体を通してしか「認識され得ない光」とが存在することになる。それらは神話的観点から考察するならば、原罪から、つまりアダムの失墜から、絶対的区分において明確に二分的に識別され、それら二つの光は本来相互一体であったが、原罪以後、絶対に遭遇し得なくなり、一方の反極性を持つものに占有され、現在においては「仮象のみを照らすもの」の光しかないものとされ、その光は物体(存在)の表面上の形象性のみを照らすものとして世界に留まり続けており、何も表面的にしか、その形像(すがた)そのものしか、明らかにされないままである。したがって、いかなる存在者であろうとも、何ら実在性を獲得するに至らない。我々はそのせいで常に不安状態に陥り、何をもってしても生きる目的も、自分が何をしたらいいかもまるで分からない。我々は「無限なるものを照らす光」を常に欲しており、自ずと「不完全」であると感じ続け、生死の境に常におかれ、血管は流失した光の粒を欲し、息苦しさも、不満足さも、誰のうちでも決して解決には至らない。

 それらふたつの光に内在する反極性とはシチリアのアウガラスの古代自然哲学者「エンペドクレス」が言うところの、「憎しみ」(反発力)に近いものであると説明できる。「エンペドクレス」は「自然について」というテキストで、四元素(火、土、水、空気)の自然論の体系を説き、「愛」(引力)と「憎しみ」(反発力)が混合し合って四元素は完全な球体をつくると説明する。それらは離散する終わりのない円環的過程を繰り返しており、憎しみ(反発力)が入り込んだことにより、この一致状態が崩れてきて、憎しみ(反発力)の支配の下で、完全に分離した。それゆえ、常に世界は「愛」の欠乏状態に陥っていると言え、それら二つの光が、再び結合し、一致状態をつくるのだとしたら、「愛」(引力)が必要不可欠である。しかし、「愛」(引力)は何処にも見えないし、発見されていない。聖パウロは何の躊躇もなく、「愛が知識(グノーシス)であれば壊されるだろう。」とも述べている。 常に人は自分だけの意志では決定的に何かが欠けているということは知っている。超越的な愛の欲求はその光の存在のみによって満たされる。ただそれから愛を救い出すのは極めて困難で、全体としては憎んでいる。 光は互いにまったく分離し、一方の光のみが照らしており、愛(引力)を失った結果として現在の「不完全存在」が成り立つに至ったのではなかろうか。人間は「無限なるものを照らす光」を見ることによって、初めて自らの可能性を成就するであろうし、光の二分化は、光の統一性のうちに止揚され、創造的にまずは新しい概念を発展させ、光の似像を獲得せねばならないだろう。ボードレールは言う、「神学とは何か。もし一元性が二元性になったのであれば、失墜したのは神である。別の言い方をすれば、創造とは神の失墜ではあるまいか。」 、またアルトーは言う、「有限の実在性における神のこの失墜とこの恐ろしい災厄から、ある日神はより大きな一つの無限と遥かにより大きな一つの栄光を引き出すでしょう、しかしそれまで神自身は不正の中を泳ぎ、生の最も醜悪な地点で泳いでいるのです。無限はある日そこから無限へと戻るでしょうが、それまで、そしてこの大地は生きるであろう限り、無限は一つの存在であることをやめたのです、そして無限それ自身は有限の中に閉じ込められているのです。」と。つまり、「無限なるものを照らす光」を帰還させること、そうでなければ決して世界は解明されることはないであろうし、人間は決して完成することはない。

 アントナン・アルトーはまた、「悪魔の世界から癒え、それを破壊する最良の手段は、現実の構築をやり遂げることである」と言った、「なぜなら、現実は完成しておらず、それはまだ構築されていないからだと」、これには私はいかなる留保もなくすぐさま同意せねばなるまい。現実は未だ完全性を持たず、他者性が至るところに蔓延る病理学的な精神病院のようなものであり、それら他者的思念や残余は、常に何処にいようともあらゆるところから入り込んできて、我々を襲い、汚し、現実の構築を阻止しようとする。何故なら、現実の構築をやり遂げることは恐怖の総体そのものであると人びとは怯えているからであり、恐怖に怯えることで、その抑止力としてあらゆる所有願望を資本主義的モデルや貨幣主義(マネタリズム)として根づかせ、欲望そのものを経済産業として階層化し、共同体的同一性を顕在化することにより、自らの不完全性を阻止しようと抗い続ける。それらの現象は自己保全願望からくる意識化した悪しき偶像崇拝性も含んでいる。すなわち、「仮象のみを照らす光」が生じた発端を敢えて簡潔に言うならば、「ひとりでは生きられない」、従属と支配の相互関係上にまず歴史上でも見てとれる。それら社会を支配する大きな死刑台のネットワークは、いかにして自らが殺されまいとし、奪われまいとするか、戦争力学や宗教観を根拠に民族や国家、はたまた個人間で抗争を飽きることなく続け、それらの契機は地政学的にもあらゆる地点に存在する、…ギリシア戦争、ナポレオン、フランス革命、ナチスのユダヤ人虐殺、冷戦、旧ソビエトのコミュニストたち、王、ブッタ、思想家、法、議会政治、独裁者たち、…何処にでもそれは変わらずあり、かつてなされたことは今も変わらずあり続けるのである。「常に彼らは果実をポケットに忍ばせ、常に自らの喉のみを潤わせようとする。」のであるから、光は雲隠れし発見はいまだなされないのである。これらは途方もない歴史の流れの中にある途轍もない「罠」である。

 これらの「罠」は以下のような多大な危険性を持つ。例えば生まれながらの盲人が何らかの成長過程において、突如いきなり眼が見えるようになったらどうなるか、私は考えてみる。恐らくその盲人は、目の見えない間に言葉或いは形象(イメージ)としてあらゆるものを認識していたはずであろうから、目の前のものが突如姿を表し、視覚的に明らかになったとしても何なのかすら定かではなく、何も説明できないであろう。例えば、目の前に、対象物である「机」があったとしても、その盲人は視覚だけで仮にそれを認識しようとするとするならば、それが「林檎」であると言うかもしれないし、「丸太」であるというかもしれない。何故ならば、彼が考えるその対象物の形象は現実の「机」と全く一致しないからであり、すべて過去の類似した情報がその認識の根拠におかれ、仮象化したものとして我々は常に個物(存在)を認識していることになる。デカルトの言うように感覚される対象とは、それが表す対象とそっくりな形象というものは何一つとしてなく、同じであるならば、対象と形象との区別がなくなるから、形象の完全性は対象と何ら似ていない。その意味ですべての認識は対象とは一致せず、常に類似した情報を根拠に認識する以上曖昧である。それらは人類全体が記憶喪失になる危険性を蓄積し続けており、歴史のある時点で、全く「白痴」になる可能性があるように私は思う。仮象実体とは絶対的個物とは類反しており、それらは常に流動しているし、またその意味性は絶えず変化し続けるし、あらゆる仮象実体は現在においてもつくられつづけ、世界全体が膨大なホログラムとして、光学機械の中に屈折して押し込まれており、その情報量は無限ではなく、容量がある故に臨界するだろう。仮象実体は類似性をもつものもあるであろうし、離反性をもつものもあるであろう。現に我々は本来の意味においては何も認識しているわけではないから、誤る可能性も大いにあり得るし、また、仮象実体はごちゃごちゃとそれぞれで結合したり、伝達したりするであろうから、その実態は可変的であるし、それらは個々で独立したり、全く思いもよらない形で表れたり、それらは極めて曖昧模糊としたものであり、所持することはまるで不可能である。つまり、仮象実体を盲人であると仮定すると、いきなり目が見えるようになった盲人は、個物(存在)を全く別のものとして認識する可能性もあるであろうから、それらが何であるか説明できるものは誰においても不可能であろう。つまり仮象性をその属性とする「仮象のみを照らす光」は常に明らかでないもののみを照らす。それが確かである以上、あらゆる認識論はその形象の仮定に基づいており、いまだかつて見たものが正確に何であるか説明できたものは誰もいない。それらの仮象実体は膨大に増え続け、それは中には「私」を類似するものであったりもするし、さらなる「私」の出現の可能性を生むであろうし、すなわち「私」という個物(存在)が何も確かでない以上、「私」は「私」という仮象実体をつくりつづける、これは「無限なるものを照らす光」をあまりに望むあまりに、その数のみを欲望のあまりに増やし続け、その愛(引力)が失われている以上アキレウスと亀のように、幾ら数だけを無闇に増やしても、それらが無限となることがないわけであるから、永遠に交わることはないのである。アルチュール・クラヴァンは「いずれ町中は芸術家を名乗るもので溢れかえるだろう、そしてその中で自己を見いだすのは極めて困難になるだろう」と言ったが、これは極めて預言的な言葉で、これらの仮象的現象を如実に表しているとも言えるのではないだろうか。

 つまり、仮象実体がいかに無限的属性を望み、獲得しようとも、それは個物(存在)を持たないものであるから、常にそれは認識されているが、一方では全くないものとされる。決して会得されず、欲望は物理的運動の規則性に基づき、内部においてその属性のみを無意味に増殖させ、自己分裂化した仮象実体の数々は決して消滅させることは出来ない。それらは主体に従属性を持つことをその属性としているが、主体とはすなわち有限的存在者であるから、いずれ消え去る運命にあるし、それら内部にある言わば「光へと向かう」帰生本能は、常に「無限なるものを照らす光」を熱望しているのであるから、消滅する機会を持たない。

「すべて感覚を持つものは光に憧れる。その光を見ること、光に動かされること、照らされること、熟せられること、そして含まれることを憧れ望むのである。(シュトラスブルクのウルリッヒ)」

一方の光が発見されない以上、世界はその有限性をその本質とするであろうから、仮に世界を大きな容器であると仮定すると、その容量はある一定以上は蓄積されないわけであり、その量を超えた際にはどうなるのか想像は難しくない。

 光の一方が発見されていないことが物体認識の錯誤を生んだとするならば、それ以前はどうなっていたのであろうか、私は考える。光の発見の可能性を生むためにも、簡単に仮説を立ててみたい。我々は現在、一方の光のみに照らされている「不完全存在者」であることは先に説明したとおりであり、仮に以前は「完全存在者」であったと仮定するならば、どのような個物(存在)であったのであろうか。「完全存在者」とはすなわち欠落がない存在であり、あらゆる欲や悪も生み出さないであろうから、世界の中にすらいないかもしれないし、いかなる社会体系、法、国家なども形成する必要がなく、全くの「個」として独立するだろう。それらの「個」は全感覚的交感によりあらゆる細胞や栄養を生成し、独りでに生存するだろうし、他者との交流を一切持たず、ひとりでに自らのみが存在する世界を持ち、独力でその世界の中で生きることは可能であろうし、愛(引力)も憎しみ(反発力)も個々のものとしてそれぞれ独力で機能しているだろうし、何ら共同体を持つ必要はなかったはずである。つまり、「個」は永遠に「個」であり続ける「完全存在」の可能性も想像上でならば難しくはない。だが、このような超越論は無意味である。私が言いたいのは、ここで浮き彫りになってくる、「欠落しているのは如何なるものなのか」という命題である。

「そこでもし太陽の光に充たらぬものがあるとすれば、それは太陽の照明力が弱いからではなく、むしろその光を受け取る側の欠陥によるものである。(シュトラスブルクのウルリッヒ)」

我々は先に説明した通り、光の二分化で明らかなように、何らかの統一性を欠いたことにより、その「光」が消失したのであるから、「光」の不完全性により実在性をまるで証明できなくなったのである。それらの「光」は一体どのような属性を持ち、一体何が欠落しているのであろうか。

「心の観念と、口を通じて生み出される音の間には、精神と肉体、天と地の間にあるのと同じだけの隔たりがある。にもかかわらず、これほど互いに隔たった事物を結びつけているのは、いったいいかなる「不可知の紙帯」なのであろうか。ハーマン」

 ハーマンに言わせれば不可知の紙帯なる言わば実在と個物(存在)の接着剤なるものがあるとされているが、一方の光の痕跡だけを遺して、不完全な形象を保ったまま、消え去ってしまったと考えられる。それら「光」の一方の喪失は我々が「不完全存在者」であることの発端の事件である。テオトドスのグノーシスの問題認識にもあるように、「我々は何者であったか、また、何者になったのか。我々はどこにいたのか…どこへ行こうとしているのか。我々は何から解き放たれているのか。誕生とは何か、また、再生とは何か。」という命題は、紀元前からあらゆる宗教においての命題であり続けており、歴史上、人間を探求することは、人間そのものを探求することで明らかにはならない。人間には確実に何らかの光が失われているからである。内部に光の粒子があるとするならば、血液と共にどす黒く濁り、天に手を掲げても、その無限実体性は不透明であり、我々は「光」の喪失を何かで満たそうとするのであるから、目を瞑ったまま彷徨い続け、地を這いずる。この不完全感覚は、見えない絶対性であり、物理的本能として行動は自動運動化され、すべての人間は光を求め、光を介在させ、光においてその生きる能力とする。光とは、内在する引力であり、愛であり、光とは、欠落した自らの「このもの性」であり、光とはあらゆる欲を振払い、完全へと誘う統一性を持つ全能の器官でもある。自らを自らと認める実在的根拠がない以上、すべての人間は光を喪失していると理解せねばならない。人間そのものに光は照らされていない。では、光は何処にあるのだろうか。光の一方を無くしたが為に何らかの認識の壁があり、向こう側(無限なるもの)もこちら側(仮象なるもの)も渡り歩くことも、見ることも、出来ない以上、すべてこの地に在るものは、何らかの有限性をもっており、あらゆる個物(存在)はこの地においてはまるで循環しておらず、個々それぞれは有限的であり、仮象実体である。仮象とは形相(すがた)そのものであり、内在する霊性は未完成かそこにないと言え、実際に実在しているところから、実存を無くして(或いは見えなくさせていて)別離した状態に無限はあると私は仮定する。

「自己を超え出る過剰は、全体性としてのこの多様性を表象することを(予め)禁じられている。過多はいかなる(全体)にもその原因(大義)を求めることが出来ない。これがまさに、過多が差異の廃位に、過剰の過程それ自体である廃位に正当性を与える所以である。「ローマ人への手紙」五章)
 
 つまり、肉体の中にはなく、生死の問題ですらその範疇においては当てはまらず、生は如何なるものも留保させ、失わせまいとし、地に留まらせるその目的(或いは本能と言うべきだろうか)を持つが、生はその主観及び本能性に基づき、何らかの行動を起こさせる習性となるが、その行動はすべて「生を失わない為或いは保つため」という消極性をその性格とし、行動においては何も生を明らかにしない要因となる。生は消極性を主体とし、積極性を持たず、無意識に自らを保とうとするであろうし、外部からの襲撃を一切拒絶するだろう、その意味で、すべての生は他との関係において排他的である。逆に死は、積極性を持つし、自らの生が失われようとするその刹那に、本来の死を誰もが実感するし、外部からの襲撃を歓迎するだろう。すべての死は他からの暴力を好む。したがって、生が明らかであるときには死はなく、死が明らかであるときには生はない。その意味で生死はその一線上になく、表裏一体であり、何ら連続性を持たない。こうして、生と死はそれぞれで孤立しているであろうから、それら実在のペテンを暴き立て、別個に分離したものとして、生死があるとするならば、実在と生と死との統合が急務であろうし、我々がまだ認識出来ていない外部に独立してある、個物(存在)を少しでも認識するために、一切の消極性はまず唾棄するべきなのだろう。行動を超越したところに光はまずあると言えるだろう。何故なら、その消極性の壁が何もかも見えなくさせている発端の要因であり、生死の価値の反逆が、ものを見る可能性を生むであろうから、如何なる国家的、道徳的統制もその本質的意味において、劣悪で差別的制度と共に歩み、個が存続する可能性を限りなく失わせるものとしての戦争機械であり、ナチ的性質をも含んでいるからだ。

 認識の壁を乗り上げろ!外部へと航海に繰り出せ!全感覚を意識化して挑発することにより時に、認識の錯誤を暴きだせるだろう、光の粒子が明らかになるとするならば、唯一無限なるものである光に照らされる可能性を持つ道しるべとなるであろうから、自らの肉体を挑発し、まず疑ってかからねばならないのだ!挑発は制度の最大の抑止力となる。直接的行動とは無限性を会得する個物認識の為の眩しき照射となる。肉体は懐疑的な性質をもつものとして理解されねばならないし、肉体に生があるとも、死があるとも、誰も証明出来ないのである。いわばその肉体を疑う(もしくは牢獄とする)という意味においてのグノーシス的本性は、肉体自体には生も死も欠落していると借定するとし、肉体は本来の場所にある実在を映す鏡としての機能しか持たないであろうし、すべての人間は懐疑的な存在として極めて危うげな模倣のようなものとして生存していることになる。それら模倣は不均等に無秩序的で、他の模倣から奪取することにより、その機能を保つ。つまり個物(存在)同士は結合されておらず、有機的機能を持たない、すべて他の実質概念を他から借定することによってのみ、その存在は自立運動性を補っている。つまりすべての人間は常に他者性を欲するという意味で、寄生的動物である。ここにおいて本質として存在するための絶対自立性が欠けていると認識せねばならない。本来の光とは無限的性質を帯び、出来するものの至高の特異存在に属しており、唯一無二の出来事であるため、構造的でも、公理的でも、ましてやイデオロギー的でもなく、絶対的他者と向き合うことによる確信的な一種の啓示であり、いかなる一般性も、法も、言説も、制度も、それに確信的根拠を与えない以上、光の法則は存在せず、誰によっても体系化されない。光は純粋な出来事であり、或るひとつの時代の幕開けであって、可能なことと不可能なこととの画一的変化である。光とは有限性と離反した、本来的このもの性を持つ物質であって、個物(存在)それぞれは、決定的に光のある部分を欠いたものとして存在する。それらある部分は本来の完全性を有する(帰着させる)、光は特異性を持つ無限存在であるから、光をわれわれが認識する光に絶えることなく結びつけ、特異性から普遍性へ、またその逆へと、進んで往かねばならないのだろう。事実上、見えている光とは未完成な物質である、共通意識的に我々はそれを本能的には理解しているであろうから、知の探求へと向かわせ、光の掌握への衝動が無意識的にしろ意識的にしろ内在で反逆性を持ちながら欲望として勃発するのである。それらはオッカムやスコトゥス、トマスらすべてのスコラ学者たちの共通の命題であったし、「光へと向かう」共通の帰生本能であり、それら残余、残余は常に至るところにあるのであるから(イザヤ書)、仕舞いには知を持たず、野蛮性や闘争本能をかき立たせ、欠如を埋めようと試みようとするひとつの本性的性質を持つ欲望の野蛮機械と成り果ててしまった。(光の空虚を埋めようとする略奪と暴力、欲望と反欲望の間の、自由と必然性の仇の弁別を行って人間世界を構成する。なんとも空しい戦争機械)。例えば太古のグノーシス的書物とされるキリスト教の誕生を預言したヘルメス文書の「ポイマンドレース」は人間の欲望に関して、魂の回帰を以下のようなものとして説明する。

「(人間)はさらに上へと急ぎ、第一の層には増減の作用を、第二の層には悪のたくらみを、計略を、無作用のまま、第三の層には欲望の欺きを、無作用のまま、第四の層には支配の顕示を(もう)願わしくないまま、第五の層には不遜の勇気と敢えてする軽卒を、第六の層には富の悪しき衝動を、無作用のまま、第七の層には隠れ潜んだ虚偽を返す。…ヘルメス文書 「ポイマンドレース」

「ポイマンドレース」とはキリスト教以前の古代ヘルメス文書のひとつの物語であり、世界の原理は最初「そこでは一切が光であり、それは美しく、喜ばしく、愛を抱かせるような眺めであった。」しかし、神の意志により、世界を創造する最初の出発点とされ、その意思とは原型たるモデルの世界を模倣し、元素と霊魂をもって感覚界をもたらしたとされており、我々の可視的な世界がつくられた発端とされている。古代宇宙論においては最初に創造された可視的な世界である星辰界は神がいる聖域とされ、 星辰界は第八天(恒星天)と七つの遊星天とから成る、円形の構造を持っており、これは古代宇宙論の不変の要素である。 しかし、「ポイマンドレース」は星辰界自体を悪と考え、そこを掌握するいわば神の偽造モデルである造物主(火と霊気の神とも言われている)が可視的世界の創造を一切担っているとされており、人間や動物を支配するとし、それは運命と呼ばれていて、運命は善きものであり、たとえそれが悪や不幸をもたらすことがあったとしても、神々の意思として人間は服し、従う以外ない。

 それらの増減の作用、悪のたくらみや計略、欲望の欺き、支配の顕示、不遜の勇気と敢えてする軽卒、富の悪しき衝動、隠れ潜んだ虚偽が我々には内在しており、その支配を悲劇として、悪として拒否する点にこの作品の特異な思想が表現されており、星辰の支配のもとでは人間は「奴隷」の状態であり、行き着く先には死が待っているだけなのだ。この書物は物語の性質を帯びている以上教訓的ではあるが、非常に興味深い点は人間が未完成のまま描かれているところにある。つまり、光の喪失により、人間それぞれに悪性を内在させ、常にそれらは本来の意味性に類似したものとして(ある種記号化して)発せられる。それらは、人間がもはや追いつくことの出来ないひとつの問題でもあるだろうし、神から失墜した、実質上の個物(存在)概念は、もう決してそれが以前のように同じものに、再びそこまで高まることなどないと知っている。

「私たちは今に至るまで、この世界の塵芥、すべての者のうちの屑のようになった」(コリント1 4・3)

 したがって、我々はその塵芥の主体性と真っ向から対峙せねばならず、またこの直面においてこそ、絶対の確信を得ることが出来るであろうし、これらは記憶の外(歴史上の記憶とは一体何処に発生源である主体を見つけることが出来るだろうか?検証することは無意味であり、例え検証したとしても、どこであっても発生とはすなわち「白紙である」に違いないだろう。)の次元においてのみ、考えられる。この地においては、記憶の外にある以上、法や制度によって制約されてはならず、あらゆる領域においても拘束するものは罰せられるものであり排除せねばならない。

「そもそも私たちは、律法は霊的なものであることを知っている。しかし私は肉的な者であり、罪のもとに売られてしまっている。私は、私が行為されていることが分からない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すこともせず、むしろ自分が憎んでいることを行っているからである。もしも私が自分の欲していないことを行っているとするならば、(その判断を律法に従っているのであるから、)律法が良いものであると認めていることになる。しかし今や、もはや私がそれを行為しているのではなく、むしろ私のうちに住んでいる罪が(それを行為しているのである(ローマ人への手紙、七章)」

あらゆる言説を唾棄し、不可視的愛のみを見つめること、すべて光へと招かざるものは幽閉されたままであり、あらゆる物質の所有をその本来的欲望とし、自らもその物質の牢獄に閉じ込められたまま肢体となっている。それら暗闇に生きるものたちは科学的レンズを用いて(機械、機械、事実何処へ行こうとも火で造られた野蛮機械で埋め尽くされている!)、火の発生を手を用い体現する野蛮人の群れであり、実体を錯乱した幻想の狂気、情報においてすべてが埋め尽くされた網目のような何ら実在的根拠を持たない一個の内乱状態へと身体を不滅へと不全へと陥らさせ、何らかの善悪の判断を持つ確信的是否を永久に沈黙するままに秘密裡のままに失わせ、それは解剖するもの解剖されるもの相互依存関係上において悪性を体現し自らの手を用いて敢えて性の偽造までも執り行い、動物を衝動欲の柵の中に葬り去らせ、腐敗した肉の山の上で声高らかにサド的淫行を執り行い、娼婦的アクチュアリテに処女性を平伏させ、奴隷化させ、それら糞や精液で出来た偽文を参照してつくられたエクリチュールはこの世の塵溜めであり、歴史の構築と同質の犯罪性を帯びていると提言されねばならない。歴史とは法王や階級制を初めとする姦淫を好むものたちの、性の掃き溜め工場であり、蓄積された造物の痰は大気を魔術的ネットワークに覆い隠させ(無論、アルトーの告発した呪い!)、個物(存在)認識の錯誤を何の懐疑もなく踏襲させ、我々を本来備わるはずであった実在の認識性、善悪の絶対的確信を決して生まれながらに持たないものとさせた。これら便宜的な記号的通信上のネットワークはあらゆる媒体を用いて記すことによって、お互いの簡潔な意思疎通をその目的とし、それらを思念に類似したものとして常に言語はその仮象化した情報概念として随時機能するであろうから、知へと向かう本質的歩行運動は谷底へと落され、我々の足は失われたままとなり、救われることもないまま「言語」は絶対の書物に記されることなく、記号的範疇においてそれは意味性を内部に閉じ込めたまま実在なきままに伝達するし、全く未分化されたものとしてその絶対の「記憶」は失念されている。

 したがって絶対の言語は何処にも存在せず、これら、認識の錯誤を暴くためには、何らかの光の照射により、実在性をその確信へと至らせるための出来事が必要不可欠であり、肉体を外在的実在へと結合させることによって完成へと導く、光学的な革命を行うことにおいてしか何も変化は望めない。すべて悪しき人間的本性とは星辰界に点在する数々の失墜した肉体の落下をその主な現象とし、その落下速度は稀なるスピードで悪魔的に進行しているし、「どこであっても確たる証拠としての実在」がないことは、決して掴むことのない世界の中で生きる実在への根拠をすべての生の頂点として地に直立して立つことの意味として転化させ、霊長類的に環境を掌握することへと義務化し、経済的本性がその欲望そのものに姿形を変え、本能を偽造したのであるから、その救い難き絶望に陥っている以上、空を見上げる人間(知を探求することを目的とする)など何処にもいないことになってしまうのではなかろうか!私は常にこのような闘争状態に置かれていると明言する、すなわち、実在的根拠を欠いたまま生の目的が何も明言されない以上、私は真っ向から人類と対峙することになるであろうし、実在的根拠を無限なるものを照らす光によって、つまり光の統一によって完成へと導かねばならないからだ。この世でその実在を明らかにする唯一至高の可能性は光の存在だけに認められる。私は目を抉り捨て、光学的ヴィジョンの獲得にあたって、光の発見へと一歩一歩着実に歩まねばなるまい。すべての事柄を猜疑心を持って検討し、すなわち実在を細分的に解剖し、構成要素を明らかにする。肉、霊性、魂、細胞、原子、精神、水、火、土、空気、光(無論有限なるもののみを照らすとされる)…それらあらゆる元素を光の完成へと至るならば、一切葬り去るべきであると考えるからだ。これらは入念緻密に計算され編み出されたわけではないであろうし、無限なるものとは一線を画する、時系列的にその始源を辿り細部に渡って検討するならば消滅される性質を持つ元素であるだろう。
 
 つまり、ある超越的視点においては統一された光以外のあらゆる構成元素はすべて二次的な副産物にすぎないこととなる。それら主体から生じた副産物はあらゆる個物(存在)の構成を図らずも見えるものとして提示するが、グノーシス的古代宇宙創世観を伴って星辰界に帰するべき副産物であるとされねばならないだろうし、形像(すがた)それ自体は実に見事な美しいままの秩序を保っているが、それらは一義的にすべて解釈できる。例えば聖パウロは本来的に革命的な確信は万人にとってあるいは例外なく意味する(一)という記号に基づくと言及する。すなわち、実体あるいは至高の存在についての哲学的思弁としてではなく、(一)とは、普遍性の根源が出来事的であるとき、普遍性の格律とは、それが万人にとってのものであり、ただそれが全人類に配慮を与えることにおいてのみ、理解されるとし、万人に宛てられていなければ、みずからを殺し、不在となると説明する。内部がいかに細胞その他物質を含み如何に複雑に構成されていようとも、すべてあらゆるものが決定的に欠けている。それは己のみで生存する力であるし、地や海に対して垂直性をすべてが宿しているし(何故ならあらゆる個物(存在)は必ず他の個物(存在)を得てなくして生存には至らない)、あらゆる個物(存在)はそれら独力で生存できない(一)が欠けている以上、不完全的性質を必ず持っている。火は他力から(摩擦)の発生なくしては存在せず、水は複合的元素を持っているし(酸素、二酸化炭素など)動力を用いて流れるし、動物に至っては言わずもがな食物連鎖がある。統一された光のみがその(一)なる普遍的な唯一完全存在として無限なるものとして存在する可能性を秘めており、存在論的下部構造は(一)を決して有しない。それらの事柄により諸処検討するならば、時系列的時間概念すらもまっさらなものとなるだろうし、歴史それ自体を全くのゼロで空虚なものとなるだろうし、光のみが実在を独立して(一)を宿すものとなるだろう。したがってあらゆる個物(存在)は統一した光をその主なる母体とし、そこからすべて生み出されたと確信できるに至る。
 
 知恵ある種はある特異性をもつ普遍的空間に押し込まれ、息を殺したままである、その源なる動物本体の肉を噛み千切ってでも血痕を精製しその証明となる実在を獲得しなければならないのであり、不逞な説教その他悪しき階級、貨幣、人種に決して囚われてはならないのであり、常に闘争状態に置かれている以上、拳を打ちつけてでもそれら古来慣習から今も産み落とされ続ける偶像を破壊し、火から脱出を試みなければならない。すべて正しきものは外におかれ特異的普遍をその正しき啓示とするであろうから、あらゆる広告塔を主体とするマスメディアが誇示し、出来事を偽造して造り上げネットワークを横断する記号的旗印を燃やさねばなるまい、認識の鎖を記憶の外へと断ち切るならば、アブラハムやパウロのようにあなたは使命されるだろうし、行動をもってして外壁を打ち破り、これからさらに複雑に成長するであろう仮象実体的社会の情報の悪種をすべて掘り返し、葬り去らねばならない。事実存在する以上すべてに火は煮えたぎってるのであるから、悪しき偶像は仮象をその主体とするシステマティックな大きな手に操作され、何ら正しき平等も見いだせず、社会とは資本主義に伴って副産的な類似文化を世界の同時性と共に歩ませ時系列的にも価値比重においても相対主義化され、あらゆる地でそれら文化の均質を累積するだけの「ただの自動機械」にすぎないのであるから(それはイコール現在進行形で進む馬鹿げた歴史の構築に誰もが加担しているという事実である。)、いかなる象徴も個物(存在)の火の下に晒されていると危機意識を持たねばならないし、その一切の影響を排泄することにより、義を持つ「個」としての確立した闘争下における生存のみが光を完成させるアイデンティティとなるであろう。正しきはすべてを見ず、すべてを寄せつけず、すべてを明らかとせぬことであり、海の向こうから都市の錯綜へと尾を引く悲鳴は度々聞こえ、すべて気泡へと帰し、いかなる存在であろうとも何もなき砂浜に立たされたままとなるであろうから、その一個の空しき土地で何もなきところに藁くずのようなものを植え耕さねばならなくなる。それら、ひとつの過度の欲動機械、制度と慣習、その他猥褻を好まんとする、尻を好む輩に、激を飛ばし、消滅したところに、実在する統一した光を、宙を持ってして帰する肉体たちへと、細胞の完成はすなわち現実の完成であるから、観念でも、事物の構成でも、いかなる原理においても、現実の完成は光の統一においてのみ本来の姿を帰すであろうからだ。光とは麗しき洗礼の儀式の出来事であり、すべて処罰の原罪に苦しむもののオアシスであり、光は頭上から洗練させ身体をひとつの芯を全感覚的に通すものとし、結合された神経はそれら全感覚的、感応的生体反応を爆発的に引き起こし、激烈な刺激物である雷鳴のように通過する瞬時の光は、唯一生を情熱へと燃え上がらせる要因となり得るし、内部から実在を徐々に会得させ、光の発生装置とは身体の内部に沸き上がる情動運動でもあるのであるから、世界に対峙する原始人のように星を見上げ思いを星座に巡らせるだろうが、星と主体との関係性を道具を用いて火を操る力学法則そのもの自体を海の向こうへと遠く放り投げることになるだろう。何故ならそこで欲望は完成されるからだ。光の完成とはヴィジョンの完成であり、欲望の完成であり、我々を欠落なきものとするであろうから、地に立つ実在根拠も、太陽の火に晒される恐怖も、なくなり、叫んだり恐れたり、争ったり暴れたり、それら自己完成によりて血がもう煮えたぎることはないだろう。個物(存在)は奪われ、個物(存在)は捕われ、個物(存在)は明らかにするもののみを認識の眼鏡を通して見て数億種以上にのぼる種別をおこなったが、光に至った全体の自我はそれを取って変えさせ、全体は欲望を欠落なき個体実在へと孵すからだ。不死の魂などはない、あるとしたらそれは未完成の魂であり、常に他から情欲を欲し、寄生をその旨とするだろうし、星辰界を突き抜けるはずのないただ食うことのみを本性とする食肉的魂である。 

 本来不可分のものであった動体遺伝子は人びとの手によって石化され、石化されたものは本来の世界の存在を知ることは出来ない。生まれながらに石となり苦しみながら生きている。プラトニスムの生の偽造に私はほとほと飽き飽きした!(それは当然ヘーゲルやネオコン流の歴史観にも到達する!ヘーゲルの歴史観は生を多い隠さんとする擬似的で、全体としての歴史の単なる哲学的承認にすぎなかったと私は考える。)

「ヘーゲルはもはや世界を解釈する必要はなかった。世界の変容を解釈すれば良かったのである。変容を単に解釈することにおいて、ヘーゲルとは、哲学の哲学的完成にほかならない。彼はおのずからでき上がっていく世界を理解しようと望むのだ。この歴史的思考はまた、常にあまりに遅れて到来し、事後的二自らを正当化する言葉を発する意識にすぎない。だから、それが分離を克服したとしても、それは思考のなかのことでしかない。…ヘーゲルは「存在するものの称揚」という哲学の仕事を行った最後の人物だ。だが、彼にとって存在していたものは、既に歴史の動きの全体性以外の何ものでもなかった。…歴史に対する思考のなかで死に絶える哲学は、もはや自らの世界を否定していくことによってしかその世界を称揚しえない。哲学は、己れ自身がすべてのことを帰着させてきたこの全体的な歴史を既に終わったものと仮定し、真理の判決を告げることのできる唯一の法廷の会期が終わってしまったと仮定せねばならないからだ。…現実と化した歴史にはもはや終わり(目的)などないのだ。「スペクタクルの社会」

 ヘーゲルの歴史観に伴って、プラトニスムの輪廻転生のペテンを解体するならば、人の魂は不死ではなく、石と成り果てた人は輪廻を繰り返さず、常に罪を背負った物質として、生を失った形に永遠に閉じ込められる。物質の一状態とは愛を失った未完成の形象であり、質料を用いて生命体を形成するなど不可能であるし、質料を統一して形成する原理の魂や可感的事物を見つめることのイデアの認識は完成されておらず、現実とは未完成である以上認識など不可能であり、光の統一がなされない以上、何処にも見当たらず、時系列的な歴史観にあたって検討しても、イデアの善など完成されていない現実にはなく、そもそも歴史上のどの時点であっても個物(存在)が完成されていない為あるわけがない、空虚な論説による見えない永続性を帯びるだけである。 絶えず我々の実在はそれら生の偽造に食われているのであり、無くしたままそこらに肉片は飛び散り、偶像と塵の山と共に伝達され、常に死体のようなものとして誰もが誰もと共同して寄りかかって生活しているのであるから、会話はその補完的機能すら持たず、常に思念に類似したものとして言葉は発せられるであろうから、本質をそれら色眼鏡で覗くことは不可能である。すべて個物(存在)は偽においてしか証明され得なかったし、偽はそれぞれの主において価値流転し、すべてを商品であるものとして価値を与えるのであるから(実際に造物神は至る所にいるではないか!)、それら造物神はヘルメス文書に基づく古代宇宙論においては火と霊気の神とされていたが、至上あらゆる地点で羽が捥げて墜落し、もはやルシフェルのような悪魔的様態をもって我々の前に様々に姿形を変えて現前し、異端審問を唱えるのである。出生は?出身地は?人種は?職業は?学歴は?社会的身分は?量りにかけ、メスで両断し、肌の黒いものは黒いもののところに、肌の白いものは白いもののところにそれぞれの宴で優雅に遊び、実在を疑うことなく、生活に追われ、家族を大事にし、価値ありきものは兄弟へと加え、価値なきものは全く無視し、いわば光の大審問を、光の尺度を、光の構成要素を、彼らはまるでこの世を牛耳った気になっているのであろうから、目にかけようともしない。何故哲学を持つかとは聞かれないのであろうか。私は必ず哲学を持つかと聞く、聞かずともそっと見え隠れする情熱を伺い知る。世界の中で生きるための実在的根拠を埋めるための機能を果たすであろうから、光の降臨も統一すらそれら出来事をまるっきり予知せず鑑みることなく、目を閉じたままの姿で生まれたての赤子のように、歯車に組み込まれ酔い痴れて全くの死体のように発覚されぬまま腐乱し積み上げられている。見渡す限り死屍累類、肢体、呪い、科学硝酸、饐えた臭いは反吐をもよおし世界とやらはまるっきり酷い有様だ、法や制度やあらゆるイデオロギーは、それら造物神の改革は、人間の欠落を結局何もまるっきり変えることはなかった、それどころかますます物質そのものに囚われている以上転落させている。それでも歩かねばならない、落とし穴があろうとも、そんなことは分かりきっている。時代は階級ヒューマニズム(独裁そのもの)から、新しい段階人格の社会主義ヒューマニズム(共産主義)への移行を試みたが、古めかしい語句に新しい意味内容を造る苦労を歴史の逆説的な状況に身を任せつつ、主に経済学というブルジョワ社会の基礎的科学の批判として向けられ、その特異的歴史状況に伴って世界革命を誰もが左に倣いを決込み、ただプロレタリア的憑依の名の下でユートピア的幻想に取り憑かれ、革命を叫んだにすぎないのであるから、無論のこと対象が共通でなく(貧富そのものの価値逆転)、ブルジョワジーが権力についたのは、彼らが発展する経済を持つ階級だったからであり、プロレタリアートは実際に彼らのものであるいかなる部分的現実も保持していないし、意識の階級となることによってしか権力になりえず、歴史そのものにブルジョワジーの階級の勝利がある以上断罪されるのは当然だったと言える。

「プロレタリア革命の科学的擁護の理論的不十分性はすべて、その論述の内容においても形式においても、結局のところ、権力の革命的奪取という観点からプロレタリアートをブルジョワジーと同一視することに帰着するだろう。「スペクタクルの社会」
 
 そもそもこうは言わずともシュルレアリストたちが揃って第三インターナショナルへの統合を訴えたときにアルトーが袂を分ったあの出来事にすべては尽きるのであって、

「もしあんたがマルクシストなら、なぜシュルレアリストでいる必要があるのか?」
「アルトーは革命を愚弄するのか?」
「あんたらの革命など糞喰らえだが、私自身のは別だ。」

 シュルレアリスムもまた一党派に成り下がってしまったから、アルトーは激怒したのであって、政治主体がブルジョワジーからプロレタリアに移行したところでそんなことは革命でも何でもなく、精神の革命、精神そのものの反逆、「我々の内なる存在があらゆる未縛に食ってかかる反抗の姿」をアルトーは推奨したのである。すなわち、もっぱら私の目標とは精神の革命を発起させる為にも、精神そのものに光を照射することであり、光学の歴史を紐解き、光学機械の内部へと忍び込み、光の統一へと至るためにも自己内部に光の似像を獲得させる方法を模索するということだ。それらは実践的に推奨されるべきであり、人間の完成の為にも急務とされる事柄である。
 例えば、私が何度も引用に充てている聖パウロは、ひとりの名も無きユダヤ人であったが、ある日、不意に何ものかに襲われるようにして、雷鳴のごとく走り抜ける、あるひとつの光に撃ち抜かれる。この出来事は、彼を強制的に転回させ、聖パウロは「主は復活した」と取り憑かれたように告げ、他の何ものにも拠ることなく、唯一例外の使徒として活を入れられ、彼自身、ひとりの強靭な主として、甦生する。イエスを間近で見ていたわけではないこの男は、ただひたすらに「主は復活した」というひとつの福音を人びとにもたらしつづけ、この途方もない生の転回点において、残余の一切、誕生、宣教、死を是とし、彼が言う「主は復活した」というその強烈な眼差しである主へと向けられたヴィジョンは光の似像の獲得に他ならなぬ例であろう。
 また、アントナン・アルトーは聖パトリックの杖をアイルランドの地に還すという目的で「本物の聖パトリックの杖が路上で引き起こした雷鳴に、魂の魔術的な失地回復主義の反響音を聞いた。(アルトー談。)これは説明するまでもなく、聖パウロのような生の転回点ではなかろうか。)、奇妙な旅を行うのだが、ダブリンで不可解な騒ぎを引き起こして、アイルランド警察に逮捕、拘留されて、フランスへと強制送還され、その後9年間もの間監禁されることとなる。アルトーは精神病院で計五十一回もの電気ショックを浴び、ほぼ満足のいく治療も施されないまま、劣悪な環境で虐げられたが、超人的な力で昼も夜も大気を覆い尽くす精神と身体を偽造する呪いのネットワークを告発し続け、生のエクリチュールを書き記すことにより、グノーシス的な悪の身体と共にあることにより、「超明晰にて、異論の余地のない」と評されるテキストを用いて、アルトーは世界との断絶の中で、光の似像を完成させ、肉体へと帰還したのである。通常ならばあり得ないこの帰還を光の似像の獲得という例の他に何があり得るというのであろうか。(アルトーの晩年のテキストは、特定のタイプの宗教的感受性、グノーシス派の迷路を彷徨った。グノーシス的身体と常に共にあるアルトー、形而上の不安と激越な心理的苦悩に由来する、捨てられ、除け者にされた感覚。精神は打ち捨てられ、失墜したものとして、肉体に閉じ込められる。アルトーにとっては光の照射が造物主の火と霊気によって妨げられる故に当然、大気に覆い尽くす造物の魔術的ネットワークを告発し続けることとなる。)

 つまり光の発見とは他を鑑みない妄信的確信的な絶対の啓示であり、それは唯一普遍の特異的出来事であり、現実の完成に伴って光のヴィジョンを獲得することであり、彼らはその目で悪しき世界のすべてを見据えていたはずであろうし、それらを告発し続けたのであるから、光の完成以外に何と評せばいいのであろうか。彼らこそがまさに生きた痕跡を持つ光学的に完成された聖人であり、歴史的にも推挙稀な光の似像の会得者である。彼らは新たなタイプの主体に属する一なるものであり、出来事そのものをまさに一変させたではないか!つまり、世界に悪が覆われており一個の死体を見つけた彼らは、光の似像を獲得し生そのものを情熱的に種組転回させ、甦生を試み、死んだ世界を蘇らせる為に万事対峙し、蘇生方法を模索しながらそして実践しながら闘争したという「ある新たな主体に属する出来事」が明らかになるだろう。では光の似像とはいかなるものであろうか。まず第一に自己内部に潜む古代宇宙観を根拠に、人間そのものは未完成な一方の光のみが存在している形象にすぎない死体であり、死体が人間の意思なるものを統率しているのであれば、また自己内部に人間である死体はいることになる。つまり、大きな死体である世界に、その死体である人間は立ち、また自己内部においても未完成である以上人間そのもの自体も死体であるといえ、火と霊気は人間それぞれに内在しており、不可知なるものを超えた恒久性、秘められて歩み出ることのない超越的住に居み続ける為に、物体のなかの光、大気の中にあって物質的火に依存した光を内在で純粋なるものとし、統一化させた。世界が悪そのものだとし人間を支配する造物主だとするならば、人間も未完成な悪であり、人間それぞれが自己内部を支配する造物主であるという考え方も出来る。人間自体が世界であり、造物主は人間それぞれの世界であるかもしれない。未完成である或いは常に罰し続けられているそれら造物主のようなものに(つまり火と霊気の神)常に統率されているのであって、光はその意味である地点で停められており、ある「超越的な出来事」がそれを解放させ、自己内部に階層的に宇宙を形成していくように、光はあらゆる方向に球形(放射線状)に伝播し、光学的宇宙の形而上学的完成に伴い発覚し情熱を迸らせ、光の内部開眼によって自己内部に伝播する光は宇宙創世され造物主に統率されているある地点を超えたところで、光の似像を獲得する(光の完成)に至る。ある爆発的な大気に煮えたぎる火の外部影響下と対峙するに伴って、光は決定的に外にある光が自己内部に入ってくるときには、確執的変質が生じ、自己に電撃のように一瞬落ちてきて、光は浸透し、様々に自己、感覚界を拡張させ、空間的に自己生成し、第八の星天、第七の恒星を暗闇から救い出す。(つまり、自己内部における光の完成)つまり、このことから自己内部も世界もその循環機能が不完全であるという意味においては一個の死体と同質であり、新たなタイプの主体とは光の完成にもとづく、超越的宇宙論を創出した光の確信的飛来であり、彼らを確信的動機へと至らせ、出来事を起こさせる。自己内部に光の似像を獲得することは、無限を知ることと同質的契機を帯びている、つまりある有限を永遠に二分化させていくならば、それは終わりのない円環的過程を繰り返すであろうし、永遠に二分を終らせることが出来ない以上、円を辿ることと似ており、光の似像とはその筋道を確信的契機に辿り、調和は永遠のあるところにおいてしか為されず、愛が完全体をつくるであろうから、同化的資質を機に、それら円環はすべて均質で一点の曇りもない完全な円へと至るであろう。それら円の中心点が円に含まれたすべての直線によって分有されており、原型である愛を捺印させ、一部分が全体へと浸透し、開眼する。それらは共同体主義的な部分集合との関係とは完全に袂を分かち、対峙的であり、それら共同体主義的集合体との関係上においていかなる同一性も構築することは出来ない。したがって光の似像とは、まったくの過不足なき新しいタイプの主体であって、授かったオブセッション、転位は、いかなる手垢に塗れた一般性の秩序や法、道徳、イデオロギーとも、相反するものであり、分有されず、合法的でもなく、構造的でもなく、一個の特異性を持つ独立した無限存在である。一方の光しか見えぬようになってしまったのは、時の始めにおいて、至るところで自己自身を自己自身で無限回増殖させてすべての方向に均等に自らを拡げつつ、現在の機構の大きさにまで薄く引き延ばし、延長したのであるから、それらが認識の断絶の壁となり、個物(存在)は照らされることがなくなってしまったのであり、歴史の段階が進むにあたってそれら自己増殖した大気を覆い尽くす火の中で自らを分裂化させ、誇示させ、欲求に逆らうことなきままに、断絶の壁をより厚きものとするであろうから、世界の甦生はより不可能な現実として呈示されてしまう。光の発生の発見に至る為には、世界には生の偽造装置が介在しているということを認識しなければならないのであり、それらが生み出した仮象実体は常に我々の認識を妨げ、公然的に犯罪を組織化させ、あらゆる共同体は光を掌握しているという錯誤から始まっているのであるから、光の似像の会得とはすなわち、世界においての実在のあり方をまずは認識することにある。

 「光の多化はなんら他の運動に依存しないのだから、そこでわれわれは天が静止し、運動が存在しないと仮定しよう。なぜなら天が静止すれば光の多化は充分よくなされるからである。そして人びとが信仰しているように、もし天が将来静止すれば、世の終わりにそれ(=瞬間的伝播)が生ずるだろうと。従ってもし光の多化が瞬間的であり、時間的でないとするならば、時間なしに瞬間が存在するであろうと、いうのは、時間は運動なしには存在しないからである。しかるに瞬間が時間なしに存在するのは不可能であって、ちょうど点が線なしに存在しないのと同様である。従って、「光が時間において多化し、可視的事物と聴覚器官との形象すべても同様である」ことが、(論理的帰結)として残される。しかしそれは視覚器官によって感覚可能かつ知覚可能な時間においてではなく、感覚されない時間においてである。というのは、人は誰でも経験していることだが、光が東から西へ生じているような時間を知覚しないからである。(ロジャーベイコン)」

ロジャーベイコンの定義に附して少しこれらに説明を加えねばならない。ここで重要なのは無論のこと感覚されない時間のことであって、感覚可能かつ知覚可能でない時制とは言わば光のおける本来上の実体がそこにあることを言い表している。運動や時制の存在が光を一辺倒な場所へと押し止め、本来の様相を隠しているとも言い切れるのである。アリストテレスは「(光による)形象は媒体および感覚器官のなかで霊的存在をもつ。」といわば、非感覚的なものの光の存在を一方では認めるが、アリストテレスの言う「霊性」とは質料的かつ物体的な諸物のうちにある質料性とも矛盾しないとしており、非感覚的な諸形象のことであるとアリストテレスに肯定的であったロジャーベイコンは説明する。しかし、非感覚的とはいわば知覚外、認識外の形象であって、質料的かつ物体的という定義にはまるで当てはまらないと私は考える。何故なら、質料及びそれを形成する物体は時制の存在を前提として成り立つものであるから、物体のある形相を保つためには損なわれない運動が不可欠であり、事実時制のないとするならば重力は存在しないことになるのであるから、物体は押し潰され跡形もなく消えてしまうであろう。ここで明言されるべきなのは形相を明らかとしない非感覚的な光が存在しているということである。このことから、形相を可能たらしめるものは時制による光であり、実在を可能たらしめるものは無限による光であると言えるのではないだろうか。無論形相に関しては可変的である以上、私は個物(存在)に関して何ら的確に表したものではないと断言出来るのであって、その言説に関しては否定的である。質料的及び物体的とは一見、真理現象を握っているように見せかけるが、実体には確たる根拠はなにもない。ただ時制の魔術によってもっともらしく見せるだけのものであって、在るものから、何かを不可避的に導きだすことが出来るとどうして断言出来るのであろうか。これらの形式主義は何度も繰り返すが生の偽造に他ならないのである。時制を唾棄し、ある超越的空間において光の構成要素を明らかとせねばならないだろう。つまり、光は時制を伴って発生するということ(ベイコンも感覚外であったにしろ時間について言説はしている)がまず認識の前提に置かれているが、それらの光の発生装置をまずは叩き壊し、空間無き空間、比重無き比重、時制なき時制、運動なき運動、照射なき照射に導き、それぞれの領域においてある認識の壁を超越しなけれなならない。つまり何かを認識するためには始点と終点を決めるにはあたらず、そこにある作用、反作用もないがしろにし、接点、非接点、反応、非反応、速度、停止…物質上の定義及び形式的空説をまずは破壊することである。影の裏には影はなく、闇の裏には闇がなく、火の裏には火はない、そこにあるだけのものはそこにあるだけの意味をもたないが、本来的にはそれ以上のものをもつ可能性を秘めている。光の完成状態とはその範疇において提言されねばならない。哲学はやり尽くされた!つまり、何らかの資質を加えることによって、本来上の意味を妨げてはならないのであり、実在とはその本質が無限定の様態によって個体化された(ドゥンス・スコトゥス)特異性にあるに違いないからだ。つまり隔たるところがなにもない以上場所ではなく、解放された空間において唯一実在はそのもの性を明らかにするであろうし、隔たる壁と壁、死体安置室を白き光で照射し、世界の容器を幻滅させ、ある超越した空間上において光の解剖を始めること。天上にある故に多角的感応においてはある一定の動体化した錯乱を頭上に帯びさせ、実在が実在であることをまるで明らかとしない複雑な装置の中に押し留められており、その光学器械の中では見るものを一切拒絶する。我々の持つ目を一切不能にし、その錯乱した様態は嘔吐すらも引き起こす、それら多面的情報錯綜体はものを見るということの認識を前提から翻し、無限なるもののみを照らすのであるから、あらゆる触覚は血反吐を汗腺から吹き出させ、人工臓器を植えつけられたように拒絶反応を引き起こし、何もかもが無垢であった頃のように、すべてが信じられなくなるであろうから、全能に平伏しすべてを盲目の触感に委ねる。すべてが死体と成り果てた今、また甦生(リロード)を待ち望む、それら統一化した光においては、何もかもが眩しく照射され、すべてが無限性の様態を保っている。美しい海、荒れ果てた海、ある無限定の調和、宇宙あるいは自然の法則への個人における介入を光とやらはなかなか許さないであろう。

 なんというむなしさ、なんというむなしさ、すべてはむなしい、あるのは白痴、そこにあるだけの歴史構築の自動機械、つまり喜劇だ、そこから甦生(リロード)へと急旋回し始めねばならないのだから!嵐の中の逆風で舵をとり、大気は火と霊気と悪に覆われて、みえるものもみえぬものとなっており、在ることは死ぬことと見つけたり?何をしていてもそこに死が見える。まるっきり死しか見えない。神を直視したら救われるって?馬鹿言うんじゃない!そんなもの一体何処に在るのか教えて貰おうか!?かつての修道士たちの信じる心は評価する、ただまったくそれっきりしかない。受難者たちは大喜び、神様は何でもご存知だ!たまにはジャックリゴー(ダダの詩人、自殺総代理店経営)に酔狂しないとやってられない、たちまちぶっ殺されちまう。事実、何を読んでも哲学的あるいは弁証法的な屁理屈とともに(生の偽造の名手たち、大気に連なる死体の数々、哀れな概念の哲学者たち!)、本質的に原理的に世界に対する実在の在り方など全く何も示せてはいないに等しいのだから、私には個物(存在)の乱行に立ち向かうことなどできない卑怯者たちの群れのようにも思える。ただ、アルトーやパウロだけは屁理屈なんぞ二の次だ!彼らのようにフクロウのような目で社会を観察し、告発し続けなければとても生の中には居座ることなんて出来はしない。死がまるっきりそこにあるんだから。造られた概念は甘っちょろい生のペテンだ、生はない、あるにしろ勝手に造られたものだ、少しでも気をぬくとすかさず脇から一杯脳天に麻痺を食らわされる、表象上での類無差別の市場流通の顧客開拓であり中国人みたいにすべてを商品にする阿呆のおかげで、ものの本性そのものを消すことしか出来ない実に見事な偽造だ!私の明らかにしたいものとは感覚外のものであって、目に見えるものや知覚され得るものを哲学的な屁理屈で小難しく並べ立てても、何も明らかにならないのはもはや自明のことであるし、私は光の持つまだ明らかとされていない特異な本性である「無限なるものを照らす光」を明らかとしたいがためにだ。無論馬鹿げているのは承知のこと!他に甦生する可能性なんて何もないじゃないか!これ以外のことはすべて嘘っぱちのペテンだ、他はすべて下らない、時代を遡っても、創世記でさえ生があったためしがない、無限との比較、無限との比較、ただそれだけ!諦めずただ繰り返すだけ!虚栄心に捕われていた頃は何かを成し遂げれば何かが変わり人びとにとって価値ある影響を与えることが出来るだろうと信じていた、私は誠実さを誰よりも信じていた、私は産まれる前からとっくに死んでいた、馬鹿げた考えだった、私はこの世の誰よりも平和主義者だ全くもって誰よりも、野心はもうまるでない、何もなくていい、何も起こらなくていい、繊細さがどういうものであるか私はよく知っている、何も教えられる必要も学ぶ必要もなかった、何処かの片田舎でのらくらと一生を終えることが出来るならどんなにいいだろうと思っている、この上なく穏やかに、美辞麗句をたずさえて、私は影響されたくないし影響したくもない自分はマルクス主義者ではないと言ったマルクスのように私には何もないと主張することがせいぜいだ、だが死があるから幸福はない、私は生きること以外何もしたくない、黙っていれば放っておくのにグダグダと汚い唾を吐きかけこいつはこのでかい死はあまりに厄介でやれかれ干渉するから撃退させないと気が済まない、人びとは途轍もなく愚かだ、特に自分は抜け目がないと思っている連中は、だから生きられない、私を憤慨させ、激怒させる、黙っちゃいられない。深刻な事態の、これら不完全な循環の、これら死体の甦生以外には私は何かをするための動機をまるで持たない。絶望したきゃすればいい、あなたがニヒリストであるならせめて不可能を要求しろ!他は見るな、注意しろ、出世主義者と野心家が仮面をつけて変装してるってこともあるからな!事実、官僚がどいつの中にもいる、笑えるくらいの疑心に満ちた野郎が死を持って近づいてくるんだから!こいつらは馬鹿げている、想像力が欠けていると、欠けていることすらも想像も出来ない薄汚れた痴呆どもだ!よし!吠えるならあなた自身に向けて異議申し立てをしろ、内的な鎖をすべて断ち切ればいい!おお、季節、どこ吹く風を綯い交ぜに、船首は何処へいくだろうか、屁理屈は季節の逆風にすら適わぬではないか!つまり、やるべきことはただひとつ、危うげな闘争状態におかれているということ、光の決定的な一掃のだ!光が統一したならば、ものの見事に白の幻滅を見ることになろう!

徹底的な火と霊気との造物との闘争!無限との比較、比較、ひたすら比較!やれることはそれだけ!あらゆる無限との対照から浮き彫りになる光学機械の内部は?!
無限は急旋回して回帰(甦生)するか、否か!?どうだ!?

 無論のこと、我々が生きているのは、時間と空間が構成する現在であり、それらの区分は今更確認するまでもないように思われるが、その他の現在には今は生きていないが、そこから来て、そこへ当然のように回帰するように思われる。だが、光は無限なるものに封じ込められた!しかし、我々は今この時よりはるか前に、無限の中で生きていたということも出来る。確かに創世記、前の、無限にだ!被造物に成り下がった我々は、無限が呪成することで生まれた腐敗の極端な象徴に過ぎなかったのだろうか。このように見ることは本来の光を甦生させることだ。死体のような存在者たちは決して本来の光に照らされないだろうし、死体自身が常に存在を主張した無限が自分に何度でも帰ってくるまで物の死んだ臭いを引き受けて苦しむ、贖いの死体となるからだ。物が閉じ込められてしまったのはこの循環によってであり、本来の光は決してそこに入るべきではなかったにも関わらず、形相の中に導かれ、一方は(無限)何処かへ消え去り、一方(仮象)は遺った。そのことは絶対に理解されないし、誰にも分からない。実際に光は降りてこず、本来の様相を取り戻さないのであるから、そこに無限態は実在せず、苦しみが押し戻すと認めたものにだけに苦しむようなひどい苦しみが個物(存在)の中にある。もののかたちを保っていること、すなわちこれは一つの悪の原理である。現実化する時間も、循環の時間もなく、光はあるときには無限なるものを照らしていた!したがって、円環も形象も造る必要がなかったのだ。実無限は悪しき造物へと後退し、奴隷化し、退化し、腐敗し、火の中に閉じ込められ、実在を決して確かめることなど出来はしない仮象実体になった。何もかもが燃え盛っている!世界の釈明!燃やしても燃やしても決して燃えない一個の死体!私はペストみたいな病原菌があることを世界の原理装置に発見した、こいつの特効薬は無限しかない、まるっきり馬鹿げている。あなたがた全員がひっくるめて襲いかかって当然私もこのペストに加担して、病原菌を振りまいている。死ぬまでずっと飽きもせずに仮象実体を生み続ける。私も!あなたも!プラトン諸君も!ご苦労なこと、例外無く治癒しようとした挙げ句に生の偽造を産む原理の母である!だが、私は生の偽造には真っ向から抗い続けるだろう、その意味で私のほうがあなたたちよりは少しばかり心があるってわけだ。実際に私のしていることも殆ど無意味に違いないだろうが、あなたたちのやっていることは生の偽造に加担しているということすら気付いていない行いなわけだから「より無意味」となる。いや、それどころか病原菌を振りまき、ますます世界を複雑に悪に陥れようとするわけだから、あなたたちは物質に囚われた悪魔の手先に違いない。

何故、光が必要なのか?
もはや私はこの質問に関して全人類が飽きずにもごちゃごちゃと今までやってきた(屁理屈めいた生の偽造のこと)やり方とは全く違う方法で答えねばならないのだろう。概念の発明、幾何学の発明、利便の発明、ご苦労なこと!原子は壊疽し拡散したのであるから、科学は完全にその様相そのものを失墜させ、大きな崩壊の未知の笑いを我々に誇示したわけだから、いかなる科学もましてや言い訳も哲学的めいた言い草も宗教家諸君の教理問答、異端審問も全く何も通用しないわけだ。(それら虚偽を行うものは火あぶりになるであろう!)行動の照射の非=科学、一本の直立した線、避雷針のようなものに立てられたような(個物)存在が集積し、分散するスペクトル=科学構造に反吐を吐き捨て、もはやそこでは途轍もないほど救いようもないほどの、悪と化し、個物(存在)汚れてしまっていると断言せねばならないし、生きるに値するのは私でもないし、もはやこの世の誰でもないからだ。(プラトンや古代宇宙論から派生した、瞑想、ヨガ、占星術、カバラ、呪術、病理学、科学、新興宗教などに、実在がどこにも発見出来ない以上救いの手を求めても仕方ないだろう!それらはすべて実在を獲得出来ないが為の偶像崇拝に近いものがある。その偶像に事実誰もが苦悩し手を焼き、何人もの思想家、詩人、哲学者、法王、ブッタ、巨人、科学者、宗教家、精神医学者、エトセトラが揃って解決にあたっても正当なものなど誰一人として呈示出来なかったではないか!それなら私のように情熱家の聖人、あるひとつの出来事の急旋回によって光の似像を会得し、生そのものを急転回させたパウロやアントナン・アルトーを召還したほうがまだ正当性があるってもんだ!)彼ら、そしてその光の似像は計り知れない無限の極地へと逃げ去ってしまった。だとすると、光はどの時点で完成し、どこで終ってしまったのだろうか?いつか、ひとつの統一した光が私自身にとって自らにふさわしいものになる日がきっと来るだろう。私が言っているのは私自身、無限なる光の私自身であって、(目に見えるもの)である私や、自我としての私の自我の(目に見えるもの)にとってではない。それを追い求めるということではなく、生の偽造にひたすら耐えるのだ。我々のどこに一体光を見つけることが出来るのだろうか?我々の不安をかき立てている根本問題がある。事実、光はいたるとことにある。それは無であると同時にすべてである。この世に生まれるようにして、この世を出ようとしている、我々はまだこの世におらず、光が必要なのはこの私、私とは何かということが何も分からないからであり、死ぬ前に何処にいたのかということであり、物質や質料、素材を根底から奪い去るべきであるからだ。
「無限の存在はいつも、有限である場合にのみ一個の存在であることだったからだ。アルトー」
個物(存在)を増やすことは誰にだって出来るわけがなく、あれら似非錬金術師たちは道士に憧れてなれなかった死に損ないの道士であり、光の欠乏状態が仮象実体を増やすという機械の歯車に仕組まれた魔術的オブセッションに取り憑かれてしまっているのだ。これら似非錬金術師たちは生を偽造し、どうにかして生き延びようと醜態を晒し、光を造り直そうとして無限を消して仮象のみを遺した、これは聖書の1ページを福音記者に代わって書き換えるという児戯めいた悪夢そのもののようでもあり知識階級や教会の特権特有のものだったが、今やどいつもこいつも街で見かけるどんな間抜け面でさえも偽造を行い一人残らず芸術家か道士を名乗っていやがる始末だ!ほんの数人、生き延びるに値する僅か数人は、この悪の世界と一切手を切り、原罪を飛び越えた。彼らは光の解剖の名手であり、無限を抽出することでどうにか生の中に居座り続け、光の似像を会得することが出来たのだが、それは類い稀な例だ。殆どのものは言語を仮象的言語の枠組みによって書き換える産業社会のタイプライターのようにこれら捏造を繰り返し行い、偽造の手だては共同体社会の調和に欲望の魔物を生み出し、その結果毎日世界は死に損ない、あらゆる所から物質をベルトコンベアーに載せ、殺し続けている始末だ。私はまるで浅い夢の中にずっといるように思う、手にしているものは誰によっても説明出来ない代物であるから固有名称はとってつけたポストバベルの機能性言語であり、悪魔は繰り返しその夢の中に我々を陥れ、例えば、会話、痰、糞、手紙、電話、通信、ネットワーク上に書き散らした物、等等は私の光の欠乏からくる餓えが生み出した、私の分身に違いないのであるから、それは全く私にとっては白日の狂気のように思えるのだ。何故か?生み出しているのは実在のまるでない幽霊(スペクトル)であり、これら思念はいつの日か我々すべてに歯牙を剥き襲いかかってくるに違いないだろう。あらゆる仮象実体は一方の光を欠いているのであるから、物質の悪に閉じ込められたまま永久に救われる手だてはないように思えるし、ましてや電子ネットワークなどという仮象の言語伝達手段までもが出現してしまったのであるから、光はいよいよ無限の中に姿を完全に消してしまったというわけだ。あらゆる仮象はそれ自体で存在する術をもたないし、我々に類似しているのであるから呪術に違いないし、凍結の魔法は次第に仮象自体がオートメーション化され、それぞれで独自の存在様式を会得し、さらに複雑な生きる人間が持つべきものではないそれら仮象実体的社会と電子的スペクタクルの全貌は狂気と狂気が結合しひとつの精神病院のような物質崇拝をより深刻化させるのはもはや間違いがない。生きながえるために働くこと、消費しつつ、消費するために生きながらえること、地獄のようなこの循環!実在の知覚が不可能のまま実在の不完全性をより体言し、それら呪いのネットワーク、魔術的要塞(アルトー)は新たな絶望的で救い難い歴史の段階を終ること無く生み出した。死して生きるもの、死なずして死んでいるもの、死んでいて死んでいるものは価値同列に置かれている、あなたの息子は数億人にも及び、死んでいてもそこに取り遺され、沈黙するときもなくなるだろう。永遠に死に伏しながら未完成の言語を喋り続ける!魔女のような狂気の老婆が童話の世界でなく現実に出現し始めるわけだ。私はそれら社会的状況も加味し、いよいよすさまじい時代の到来を予感せずにはいられない。これら仮象実体どもが結託し根城にしている共同体の中の文化均質相対主義は本来知識人や教会の特権であった生の偽造を、誰によっても容易く行えるという社会的状況までも捏造してしまった。毎日どうでもいいイデオロギー、屑どもの茶番劇みたいな政権交代を豚同士の汚らしい性交をまるっきりの悪夢を強制的に見させられる、実際に近い将来に情報が混乱に来すことは間違いないし、私以外の私の出現が出来することは予感しているし、その私は偶像を好み、虚偽を好みかつこれを行い、私という私を処罰に陥れるのではないかと思う。極端な奇数の数列を痴呆みたく喋り続け、自閉症患者みたいな腐乱した仮象のホログラム機械を手にし、どこへいくこともなく共同体的群れの行進なる身内内の自慰に耽りながら、「あなたはあなたがどこへも行かずに済ますようなものを見つけ出さなければ」という誇大妄想狂は自慰しながら宣伝カーみたく我々の往く手を阻み続けるだろうし、いずれ私は私を戦争へと徴兵させる羽目になるだろう。無意識的な仮象崇拝精神はカルト的な新興宗教のようで、偽の預言者が街のいたるところで黄金を手にするように記号の魔術の虜になり、生の因数分解を休むことなく続け、残飯を散々ぱら食い荒らした挙げ句に崩壊し、麻痺した末に妄想の万里の長城を構築し、それら仮象を牛耳る王たちは殺人を犯すかもしれない。この意味で、実在を確かにするためにも光の完成が必要だと私は再三に渡っていい続けているのである!あなたたち生の手品師は簡単に命をつくったり捨てたりするが、それらが何処へ一体向かっているのか知っているのかね?まるでその恐怖を分かっちゃいない。あなたたちの造った自動人形はあなたの首を絞め、あなたの生自体を殺すことになるということを(トマス・アクィナスは自らが造った自動人形を最期に破壊したという事実もある)。人類は続けることしか求めないが、私は正直そんなことはどうでもいいと思っている!むしろある世代はある世代へと移り変わるのは責務なのだから勝手に終ればいいと私は思っている!ただこんな馬鹿げたシステムに乗っかった無責任の異常者たちにペストを撒かれ殺されるのはまっぴらご免だってことだ!トリックを見破ったのは何も私だけじゃない、アントナンアルトーも聖パウロも、悲惨な最期を遂げ社会に殺された詩人たちも、このためにだけに、専ら彼らは召還された出来事の中の聖人なわけなのだから。救い難い絶望がいたるところで垣間見える、私の気のせいであってほしいものなのだが。

 例えばプラトンやアリストテレス、ゼノン及びストア学派、トマスアクィナスやウィリアムオッカムなどのスコラ学者などによって様々な普遍が語られてきたが、私が問題に思うのはそれぞれの持つ普遍のあり方ではなく、普遍とは複数のものの述語となるもの(例えば人間)がその共通本性とされてきており、それが定義であり名辞の事態であり出来事に垂直に直立しており、その普遍があることによってその論争は事実成り立ってきたが、文化均質相対主義によって、複数のものの述語となるものは限りなく無限となり、その普遍自体も存在しなくなるように思われる。例えば実在論者であるモンターニュのワルターは「すべて在るものは数的に一であるから、普遍的事象は数的に一であるか(もしそうでなかったら)そもそも存在しないか、のいずれかである。」と述べている。この定義について述べるならば、数的に一ということは仮象が思念と類似するものとして様々な場所に散開している以上、普遍はそこにない、或いはあるとしても凄く曖昧である、と言うことが出来る。無論、それらメタファーめいた実在を前提として、「普遍(最も私は未完成だと散々これまでも述べているが)の中の実在」をスコラ学のスコトゥスを初めとする実在論者たちは定義化しようと試みたわけだが(存在の一犠牲)、私が言いたいのは時代はメタファーすら定義化するにあたらない程より深刻に悪化しているということである。文化はその特質上、その文化に入り込むために様々な覚悟や段階、教養を必要としてきたが、その段階は今の時代にはなく、すべて均質化され、並列となり、知識の有無もまるで関係なく、優れたものも劣るものも同列に扱われるという社会状況もある。その共通本性が価値あるものでなくなった場合には、当然、それは普遍ではなく、意味がそこかしこでとって変わる流動的な仮象となる。そこでは、事態を把握できず、まるでとってのこされた迷子者のように、情報の波に呑まれ、様々な湾曲、偽造、意味可変の錯誤を、常に強いられる。価値あるものも、価値なきものも、一定の意味で語られるのであるから、そこに普遍は確立されない。つまり、プラトンはあめ玉と同列かもしくはそれよりも劣ると誰もが腹をかかえる喜劇に社会は参入することになる。これじゃあ、哲人たちはあまりに可哀想だ。そうであるなら、私は社会の敵なのか?もちろん私は社会に思いやりなどもったことはない、今更言うのも馬鹿馬鹿しいがあらゆる社会はでっちあげにすぎないし、本質的には死体そのものであると何をさしおいても断言せねばならない。

 光の解剖学とは、その死体を切り刻み、舵をとり急転回し甦生(リロード)をとりおこなうものである。これは時間および、空間、生の偽造、哲学めいた概念、観念では、個物(存在)の実在を規定不可能であるという確信にもとづいており、常に個物(存在)の感知出来ない境界、すなわち誰であれ、私が私であるということを分からないところに留まっていることを承諾し、あらゆる抽象論や神秘めいたもの、カバラ、ヘルメス学、降霊術、占星術、呪術、プラトニスム、科学、哲学めいた論述や、屁理屈めいた実在の理論をこけおろし、実在を議論の外へとコンクリートのようなもので固め閉じ込め、事実、実在にとって変わった科学的な法則の一切が破られたのであるから、原子はごちゃごちゃと微菌それらと結合し、さらに仮象実体の天下へと時代は様相を確実に変貌させているし、仮象は未完成の悪魔が造り出したメタファーの実体であるから、ある時点ではそれら個物(存在)を形成した別の要素があることは確実であり、神がいるのかどうかは私は知らないが、あるひとつの要素が外から急激にやってきて、光は解剖され、一方は仮象をモチーフに、一方は無限をモチーフに、個物(存在)はでっちあげの秩序のうちで為されたのだから、個物(存在)を完成へと、現実を完成へと導く、ひとつの形式をもたねばならないのだが、無限の息吹は目に見えないし形をもたない、ある外部からの光の出来事による一撃によって(パウロやアルトーの生が転回したような)、単純で固定された実在へと還元するのであるから、それは光の解剖学のもとでまずは考察されねばならない。これらの光学的革命のヴィジョンは無論形而上学や歴史の構築などの外へ置かれねばならないし、あらゆる屈折光学、光の分析論は仮象を論じたものにすぎないのであるから、まずそれらはこの時点で議論の外へと赴き、論じられるべきは確実に無限のほうであるということをまずは強調する。無限は出来事を創世記へと遡り、神の断罪と真っ向から衝突することになるだろうし、ある特異的な普遍をリコールしなければならないだろう。人類はそもそももうひとつ別の存在をもっていて、それは無限と重なる存在であるから、現在は実在は排他的に軟化され、限りなく無に近いものとなり、取消不可能な個物(存在)へと閉じ込められたことを要請されたのであるから、その帰結を構築するならば、まずこの対象物を創世記に照らしたとされる光の二分化が確実に証明されなければ、何も殆ど無意味になってしまう。つまり、世界の原理にある悪魔性は我々を常に汚し、傷物へとさせるのであるから、個別的にでも、光の似像を会得し、召還しなければ、この世界と対面する権利すら持たないこととなってしまう。無気力に続けられている仮象の製造装置の模倣に、個人それぞれが解任させるようにただちに取りはからわねばならない。本質にある実在が何なのか?それは光の統一が唯一それを証明するであろうから、仮象のすべてを焼き払い、粉々にし、排除せねばならないだろう、凝縮した、局面の無い、あらゆるものを感知する馬鹿げた共同体的監視装置の消滅、すべて個人は動かされるようにこの装置の中で操られコントロールされているし、産み出すものすなわち造物を崇拝し、それらは増象の塵溜めの中で身動きがとれないように、常に窒息させられ、未完成のままに、何故自分がこんなことをしているのか?説明出来るものは誰ひとりとしていない。だが、私は説明出来る。共同体とは助力を要請し足並みを揃え偽造した生を自動造生する機械なのであるから、文化の均質性及び相対化は、無気力に同質の仮象を産み出すように同じものとして並ぶようにインプットされ、常に自分が一番楽な選択肢を選ぶように社会に生を捏造されているからだ、だがそこに実在なんてあるわけがない、常に生は誤るかたちで偽造されている、これら魂の造成装置以外の実在を構成する例外は、法の太古の(記憶の外)においてのみ、実現し、考えられうる。捏造は、自律性、自動機械としての欲望の生なのだ。これらは意志に関係なく、欲望の自動的な生、均質の反復の自動性を要求し、存在を死という腐乱性のものの原理装置とした。物質崇拝主義は、下らない序列をもたらし、我々を常に危うく本来的には不均等な制度へと誘うものである。無限は絶えずそれらの外にあり、我々はただちにそれを帰着させ、生の実在を照らすためにも、無限の解明を急がねばならない。それは数列、記号上の意味ではなく、最も正しいありかたとしての生であり、その光を仲介し、装置や捏造、偽造のすべてを無きものとするために、仮象と無限の間にある不可知の紙帯を用いて、光学機械の内部にて入り込み分析しそれの結合を取り計らい統一することが肝要だろう。ここまで私は問題の解決にあたって最も根源的でいちばん単純な対象から始めた。これはより不可能性の限界を身近に接して呪いの複合度の高いものを認識するためであり、現在においてはより酷く甦生を不可能にさせる社会問題を深く分析し、甦生をより実践的なものとせねばならないだろう、ある新しいタイプの主体の召還に伴った実践的な光学的革命を分析を用いながら要請せなばならない。

・ 仮象実体化社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪(スペクタクルの社会及びスペクタクルの社会の注解に対する改題)

 今や、アラン・バティウが言うように資本主義という抽象的普遍と結託した多、他文化相対主義(そして特殊、個別的な共同体主義)において何ら希望も見いだせず、ますます世界は救い難く絶望をより深く実感するのみに尽きる。彼らは若者であっても生まれながらの老人にすぎないし、仮象実体を増やし続け、偶像を好み崇める、歴史は終わることなく、彼ら自身がその歴史の主体となり、偽造の生を産み続ける「自動機械」となってしまった。オッカムの言うように実体は無闇に増やしてはならないのであって、情報の湾曲、偽造を常日頃行い、ますます自らの欲望を架空の意識化を用いて体現化し、ますます実在を地に失墜させ、光の見えぬままとなるのである。また、これらに抗い続けるものであっても同時にこれらの犯罪に加担している一面も私には見えるし、例え反論があったにしろ彼らは生の偽造を操作する者たちともすぐに同一化し、実際は自分たちが分かち持っている無知を軽蔑するのである。というのも、この嘘に満ちた生の偽造を操作するものたちに対して提供される情報の切れ端は、すぐさま嘘に汚染され、検証不可能なものへとただちに変貌を成し遂げ、その実体を掴むことは理論上不可能であるからだ。そんな情報でも、偽の生を体感させる以上彼らにとっては自らの知性、顕示欲を満たす絶好の機会であるから、ただちに日頃の鬱憤を晴らす余暇の喜びに取って変わる。なぜなら、何も知らないどんな者に比べても、彼らは自分のほうが優れていると感じるからだ。おまけに、それらの情報の価値は、支配をより一層是認するためだけのものであり、実際にそれを解体するためのものでは決してなく、より深く生を偽造させるのである。それらの情報に、架空の仮象実体たちは、その餌にすぐさま飛びつき、隠されているものを使うことによってではなく、仮象の空間のみで明かされたものを信じることによって、愚かにも自分には何かが出来るとその優越感のみを鼓舞させ、仮象実体たちの知性の特権の要塞となり果てるのである。そこで生は完全に破滅している。あらゆるものは仮象を操作することにおいてのみ自らの尊厳を確保し、社会はそれらによって商品を産み出し、ますます抜け出せない円環的な相互依存の偽造的なネットワークによって社会は成り立っている。

「われわれを取り囲む忌まわしい諸制度、
祖国、家庭、社会、精神、概念、知覚、感覚、情動、心、魂、
科学、
法、正義、権利、宗教、観念、御言葉、言語活動が
維持されるのは魔術によってである、というのも実際にはそれらは消え去り、もはやいかなる現実的なものにも一致していないからだ。
アントナン・アルトー」

アルトーの言うようにこれらは現実的なものには何も一致していない、維持されるがままのすさまじい魔術の効能、アルトーに告発された呪いの総体は独自の普遍なき共同体を生むにまで至り、それらによって様々な実在の実根をさらにハイエナどもは食い荒らし、文化、生、情報の価値基準を均質化させ、それら偽造したものによって囲まれ、仮象の富に囲まれ安心を得、ここで全体としてのイデオロギーの歴史は終わり、個人による歴史の再領土化をただちに成立させるものとして、これら情報依存は目紛しいスピードで発展していった。これら仮象の富は、単に個人的なコミュニケーションや余暇の範囲内に留まるものではなく、すべての社会に類似した架空の空間であり、例えば街ですぐさま職業を聞けば、私はいかなる偽造に加担しているのか正確に言い当てることが出来る。いかなる富も愛も社会生活も仮象の価値、物質に汚染され、そこにあなたが携わっている以上すべてあなたは仮象の富に取り囲まれているという認識がまず必要である。これら偽造の相乗効果にあなたたちすべてが例外なく加担していると断言出来ると同時に、仮象と実体の垣根は非常に曖昧で、常に意味性を変貌させ流動的であるから、ほぼ全域に渡って物質に実在は奪われている以上、いかなる行為者も経済原理を担うものとして仮象を産み出す主体であることを逃れることは決して出来ず、すべてがその架空の表象空間では無意味なものと成り果て、本来の実在からは完全に取り残され、あらゆるものは根こそぎ物質の枠に留まる以上殺されたままである。それら生の偽造は、経済や情報の多角的斡旋効果、余暇の自己内象内での満足収縮性、愛の偽造相対主義然り、すべて仮象を用いてしか何も産み出すことも体感することも出来ず、或る所で憑依され、あなた自身を物質の中へと閉じ込めさせ、自らの生を常に落胆させたままである。これら文化、生の均質性共同体主義はすべての偽造に加担しているといえ、ほぼ総体としては価値基準を完全に分解させ、価値あるものも価値なきものもすべてを同質のものとして扱っている以上、過大な認識の錯誤による犯罪性を帯びている。これらを解体させるには個としてすべて独立したものの生を、新たなタイプの主体の生をただちに要請せねばならないだろう。ドゥルーズは簡潔に以下のように述べる。

「資本主義の脱領土化は恒常的な再領土化を要請する、と。資本は、みずからの運動原理によってその原理が行使される空間を均質化するために、主体的で領土的な同一性の常なる隆起を要求するのであり、これらの同一性は、結局は、市場に単一形式的な特権を与えようとして、自分も他の同一性とまったく同じ資格で陳列されることを要請しているにすぎない。一方における一般的等価物をめぐる資本主義的論理と他方における共同体あるいは少数派の同一性と文化の論理は、接合された(全体)集合をともに形成する。ジル・ドゥルーズ」

 すなわち文化の均質性に伴い(情報の統制に伴い、個々それぞれが電子ネットワーク上にて自らが主体となり仮象実体を無差別的に生むことによる、情報の湾曲、偽造は真なるものを濁し、いかなるものも価値同列化して扱われるということ。)アイデンティティの確立されない社会においては、野蛮で無差別の特異性をもつ犯罪的共同体を無作為に乱立させ、あらゆる共同体を組織化させるのであるから、単一形式的な情報の独裁及び偽造が行われ、個は何も確立するには至らない。したがって、それら仮象の主体からは何ら出典も明らかとせず、魑魅魍魎となり果て幽気に満ちた主体無き仮象実体が権力を持つことになった社会は、更なる認識の錯誤をより複雑化して狂気そのものの実体として生むであろうし、いかなる確立した認識もそこではあり得ないものとなるのであるから、明らかにされないまま再領土化されたネットワーク上の土地にて、認識を絶えず困惑させることが今後も持続して予測され得るし、これらの偽造はプラトンらとも違い、知を持たない仮象実体が主体となって行われるのであるから出所が曖昧である故に余計性質が悪いように思う。仮象実体を定義するにあたると、まず思念を類似化したものとして言語化され、形象のみを照らす光によってそれは曖昧に視覚となって認識されるという意味で、仮象実体とは常に身体から離れたところにある遊離主体であり、知覚され得る情報及び今後情報となりうるものの思念で構成され、それら仮象実体とは有限的存在者すなわちその主体から付随して表出され、瞬時に情報や文化的伝達を主体を明らかにせぬまま行うのであるから、それら均質化した思念は、常に曖昧であるという意味で仮象的である。人間そのものの相互対論における循環ではなく、人間に類似したものの仮象伝達の循環であるから、あらゆる場所で、実質的にそれら人間に類似した随伴的仮象の主体を生み続け、それらは屈折した情報擁護下の中でそれぞれで伝達したり、分有を謀るであろうから、暴虐的な情報波乱の危機を常に背後に控えさせている魔物である。それら情報の爆発性に伴い、精神は欠落し、至る所で綯い交ぜに情報に遵守したり、情報を書き換え、情報そのものを失わせたりもするであろうから、これらの行為者は主体なき全体組織的犯罪を行うものとしてあらゆる場所でその活動を継続させている。二次的、三次的被害であっても、主体なき犯罪は絶えず蓄積され、飽きることなきそれら錯乱した情報通達分派活動は、あるひとつの狂気の実体そのものでもあり、ますます今後も認識の錯誤を深めていき、それら均質化した共同体間において差別、略奪、構成の鞍替え、湾曲、偽造、すなわち階級的に再領土化され、統制もコントロールもされない小さな権力主体の数々の存続は光学器械の中に取り込まれ仮象である故に不可能であり、我々は生を麻痺させた末に、完全不能者となるであろう。それらは独自の行動様式も持たないし、あらゆるところに突如表れたり、消えたりするだろうから、監視は不可能であるし、社会は常にそれらの存続を要請し、あらゆる陰謀を企むこととなる。
 仮象実体が個人それぞれを食い尽くす、これが仮象実体に汚染された社会である。例えばこれに比較して、ナチズムを例にあげるとするならば、人種の統制を根幹とした、全体主義国家であり、徹底的な人種統制をテーゼにあげ、ユダヤ人を大量虐殺した。これらは国家のある妄信的思想が、社会全体にまで影響され、不当に社会の権利を踏みにじってきたわけだが、それ故に、国家が社会を食い尽くした犯罪と言える。だが、こういったイデオロギーの歴史の終焉を迎え、現在では個人が歴史の主体となる以上、例えばある個人が例に習って「人種統制にもとづくユダヤ人虐殺の為の優生学のイデオロギー」を産み出したとするならば、その主体を見事に変貌させ、姿形を変え、捉えどころをまるで消失させ、それは常に実体のない情報の仮象となる以上、まるで出所の判別出来ないものとなり、それは勝手に思念や類似した言説を産み出し、仮象が個人を食い尽くすこととなるだろう。また高度化した資本主義ではこれらの仮象はメディアを根幹とし、特化して現れる以上、あらゆる商品を流行させる目的で行われるわけであるから、ユダヤ人虐殺をモチーフにした商品がたちどころに表れ、それらを皆が皆手にとり、一種の表象にすぎない流行をつくりあげることになり得るだろう。それらは絶えず生を脅かせ、不安を掻き立たせるものとなる。ただし、ナチズムと異なり常に仮象実体は主体を明らかとしない偽造そのものにすぎないのであるから、絶対に告発され得ない犯罪である故により深刻化した問題であるように思う。メディアはまた、個人の所有するものへも変貌を遂げたわけであるから、その個人が主役となり、歴史をつくり、常にあやふやな表象にすぎない仮象を至るところに誰もが無作為に乱立させ、それに対する意義も何もなく、次第にそれらはコントロール下にも意識下にも置かれないわけであるから、それら仮象のパレードが知らぬ間に流行し、個人それぞれが知らぬ間に犯罪の容疑者となっている例もあるだろう。すなわち、仮象とは個人それぞれにその本来的性質をすべて帰属するのであるから、国家対社会、ブルジョワジー対プロレタリアートの構図そのものはもう完全に転覆したし、全体運動を消失させることで、捉えどころの無い主体なき犯罪を日々推奨しているという意味で、あなたたち自身がそれぞれ歴史を産み出すというその手綱を握っているのである。これらの社会的事象は20世紀最大の思想家であり、ポストモダンよりも実践的であった革命家、ギー・ドゥボールによってその大綱は前段階のものとして既に50年前に預言され、主な著書「スペクタクルの社会」及び「スペクタクルの社会の注解」は情報資本主義社会を断罪した。消費社会に対する怒れる若者たち(ソルボンヌのナンテール分校が発火となった)が発端となった、68年フランスの5月革命では1000万人もの人びとを動員し、第四インター系のトロツキストの青年組織、フランス共産党、アナキスト連盟、社会主義か野蛮かなどのグループが混在する中で、ドゥボールほど確かに社会を見据えたものはいなかったし、あらゆるグループが立役者になろうと躍起になる中で(虚栄心、野心に満ちたいかなる指導者も私は好きじゃない。)、何に対する改革なのか提起出来ず、次第に革命はヴィジョンを見失い、錯綜していった、もはやいかなる思想も糞の役にも立たないからだ、人びとはそれに期待し、骨を削り何度も顎が砕けるほどに絶望した。資本主義と共産主義の夢が完全に没落し生が破滅する中で、状況の構築というヴィジョンには現在においても学ぶところが多い。正確にはシチュアシオニスムというイズムはなく、状況主義というものは存在しない。ただ、シチュアシオニストというものはかつて存在した、彼らは5人程の少数先鋭ながら同時代においても圧倒的に異彩を放ち、的確に消費社会のスペクタクルの魔物をその目で捉えていた。現在においては状況はより一層深刻化したものとして私には感じられる。スペクタクル(見せ物)から歴史を構成する仮象要員にまでなっているし、マスメディアは様態を変化させ社会から人類それぞれが生の偽造を日々行う広告塔となっているし、スペクタクルは段階的に分裂し、様態を変化させ想像も及ばないほどより呪いの深度を増したものとしてその問題を告発することが出来る。以下、ドゥボールの著作を引用しつつ、現在の社会的事象を踏まえ仮象実体化社会に対する提起を行っていく。


「スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された、諸個人の社会的関係である。スペクタクルは自らが自らの生産物であり、自分で自分の規則を決める。」

高度化された情報主義社会のもとで、行動不全に陥った諸個人は社会的関係さえも軽々と飛び越えて、独自に社会に対して仮象実体は出所のない歴史そのものを突き動かし始める。

見え隠れする仮象の数々は、もはやスペクタクルの領域に留まらず、遥かに凌駕し、スペクタクル(見せ物)であることから、自らが主体になることを渇望し、実践的な領域にその活動のベクトルを転位させ、諸個人それぞれの擬似的な聖なるものは、数々の事象を独自に産み出し変異させ、矛盾なるものに訴えかけ、独善的にその機能を維持し続ける虚偽の総体を社会に対して申告し始める。

何事もすぐさま情報として回収され、至る所に虚偽の出所不明なスペクトル(幽霊)が縦横無尽に歴史の垂直性に伴って飛来し、その数々の偽造を捉えることは不可能になってしまった。したがって、個が何によって影響されているのか、また、何によって突き動かされているのか、その動力の全体性を掴むことないまま、仮象内での暴動や錯乱、倒錯を生みだし、個は何を訴えているのか、また何に対して怒りを感じているのか、運動そのものの有用性も主体がないままであるから当然全くの不明瞭となり、怒りの矛先を向けようにもそれらは見せかけにすぎない仮象実体であるから、自らで自らの首自体を絞め、煙のないところでさえもたちまち炎を燃え上がらせて、マッチポンプ的に個それぞれが個の産み出した仮象に対して闘争を繰り広げ、それを自らが消してしまうという矛盾を総体的に引き起こす。

自己分裂的な虚偽の情報の乱立、及びそれらに対する主体の消失は、架空の空間を用いて操るわけであるから、永劫的に日々歯車に組み込まれ生活の中でさえも仮象と闘争するのであるから、非対象効果を生み出し捏造は悪化の一途を辿り、虚偽の総体はこれらを逆に上手く利用し、自らの富とするであろうから、助長を逆に促す。

仮象の捏造及び斡旋の力学は、日々、一分一秒も失うことのないまま、時間を不可分なものとさせ、自動機械のように虚偽の演劇は進行され、仮象実体と仮象実体同士の無意味な言い争いは歴史自体その幕を閉じることのないままにさせ、その主体なき倒錯を個人の歴史の山に蓄積させ続ける波乱を齎し、言語の様式は方式を持たず波乱しコミュニケーション不全となり、それら意味不明な分裂病的様相は社会そのものにやがて感染し始め、仮象産出をし続けなければ抗うことは出来ないという芸術家のような属性のものを生む病に取り憑かれる。

「スペクタクルは孤立を循環的に生産する。孤立は技術を基礎づけ、逆に、技術のプロセスは孤立する。…「孤独な群衆」の孤立状況を常に強化させ、個の世界の時間と空間のすべてが、個にとっては疎遠なものとなるのだ。」

「私はものをそれ自体において捕えて表現する人間なのです。そうした態度は現代では評価されていないし、何世紀も何世紀も経ってから反=物質主義の革命でも起こらない限り、おそらく評価されることはないでしょう。さしあたり私たちは明らかに広告と機械の時代に生きています。だから、天才的な機械人間であれば売れっ子作家に間違いなくなれます。セリーヌ」

仮象実体の産出活動は、ただちに回収されることは必然であるから、そこには誤った有用性、機能しか体感出来ずに、常にスペクタクルの実体から完全に取り遺され孤立を強いられることになる。

スペクタクルの社会が執筆された時期の情報主義社会に対するドゥボールの批判は、主にそのスペクタクルから個が取り残され、全く自らと関係のないところで見せ物として我々は強いられることになり、社会は独善的にそれを機能するというものであった。今やその対象関係は変貌を遂げ、擬似的な空間、何ら事実上の社会生活とは全く関係ないところで、架空の上で取り残されることに抗うことが出来るし、一見すると自由な発言が出来るというはりぼての電子ネットワークが発明されたわけであるから、それらの仮象実体は、疎遠意識を表面上はなきものとして、全く意味のない言説や不満をネットワーク上で飛び交わせることによって、偽造された生を得ることが出来る以上、より社会にとっては都合の良い状況にスペクタクルは段階的に進化した。

個が産み出している仮象実体の数々は社会に自らが参入しているという、言わば擬似的な主体として社会活動を助長したり、批判したりするのであるから、架空上の社会身分を通して、それら個に疑似体験をさせ、鬱憤や怒り、不満を保全する機能を持つ。

個の世界の時間と空間のすべては、仮象実体が牛耳るもうひとつ別の社会を誕生させることにより、孤立感を不透明なものとし、仮象実体はそれぞれで独自の共同体を築き、そこで特権意識を見いだすことによって、本来の社会の技術をより基礎づけ、技術のプロセスは確立され、民主主義の総意を全く無視し、権力者たちはそれらによって反乱や全体運動を収縮させ、独善的な仮象社会を確立させた。これらを操っている権力者たちは無限にいる、マスメディア、広告、企業と名のつくあらゆる社会産業は、仮象実体に社会参入させることによって富を産み出し、消費を促し、それら仮象実体の意図を反対に利用し、自らを不動の権力者とする。

「己の生産物から分離された人間は、自己の世界のあらゆる細部を作り出すことにますます意を注ぎ、その結果、ますます自己の世界から分離される。いまや、彼の生が彼の産み出したものであればあるほど、彼は自分の生から分離されるのである。」

 これらの現象において自己を確立するに至らず、不安に駆られたまま、ますます仮象を産み出すことのみに熱心に意を注ぎ、それら仮象の数々は次第にあらゆるところで蓄積され、それらは主体に類似した思念を自動機械的に発するものであるであろうから、その分離は、仮象と仮象との非実体的なコミュニケーション、結合を産み出し、主体の知らぬ存ぜぬところで活動するようになる。

この活動により無数の共同体を造り出し、この生のある世界からますます孤立を強いられ、次第に人びとは仮象のみを好むようになり、仮象のみに没頭する。

「動かなくなった人間」はそれらを気の赴くままに右へ左へと移動させ、これらは経済と流動的な状態で癒着し、偶像の中でそれぞれ愛情を育んだり、友情を成立させたり、取引を行う。それらメタフィジックなものたちは、電通的組織融解を用いて、感覚的に至福を疑似体験させ、瀕死の呪詛に筆舌し難い吐息を吐き、生の隔離は血液循環機の奔流の中にあることなく、物理的科学的な仮象の管の電信的血管を取り巻いて、それぞれの社会活動を維持させようとする。

地上的にして現世的なものはなく輝きをやがて失い、閉じ込められた室内の中で大きな腐敗した肢体となり、仮象の未来の詩学を、そこにありもしない言語活動を、架空の世界へ向かって旅立ち、完璧であり充分に敷衍されていると思い込み、個人それぞれが何ら意義のない目標へと均質化され、一直線にその主体なき攻撃へと妄信させる。

「円環を描いて循環する完全な商品となったスペクタクルは、一つの全体として機能する生産力から完全に分離され、断片化された個人に、断片となって立ち戻って来なければならない。」

 断片さえも失った爆発的に混乱に帰した情報主義社会は、その断片が個々のものであることさえも身分証明出来なくなり、仮象に囲まれた不毛の迷路の中の臨界を常に彷徨い続けることになる。そこでは生は全く意義をなくし、輝きを失わせ、物象に回収される。それら意図的に強制的に指令された生産力の機能性は、指令する主体すら定かではなくなり、これら生の偽造は感覚を麻痺させ、アヘン戦争のように漏れ続け、異常な仮象のイメージのみを産み出し、そのイメージのみで社会を成立させるような社会的関係を形成する。

そこにある労働力、資本力は、個々の主体の属性から、完全に隔離され、構造の基礎は内乱をまき散らして、それにより解消され、幸福であると妄信的に信じ込み、何も疑いを持たなくなる。無論不満や暴動は起こり得るがすぐさま回収され、そこにおいて個人は完全に差異性を、独自の性格、個性、行動をすべて見失う。

「余分な生の増大にいかなる彼方も、余分な生がその成長をやめることの可能ないかなる地点もないとすれば、それは、生き残ること自体が喪失の彼方にあるのではなく、より豊かになった喪失にほかならないからである。」

喪失に向かうための主体はない。すべてその情報の発生源すら定かではなく、装置のなかに取り込まれる以上、余分な生、すなわち仮象実体の数々は、あらゆる場所で困惑されたまま行き場を失い、「人間は殺されたままとなる。」

数々の類似点、相違点を求め探求すべく、主体なきものに、闘争心や絆、憧れを抱き、やがて戦争へと駆り出される羽目にまでなるが、実に奇妙で永遠が混じったものとなり、肢体のまま仮象の海に放り込まれ、水泡や記号に囲まれる中で、それぞれを殺し合い、また助け合おうともするが、そこは濁った苦い水であるに違いないから、この大戦争はその対象は個人が産み出した仮象実体にすぎないために、首をかっ切るが、その血は混じらず、その矛先は無黙なままである。これら仮象のシルエットはあらゆる倒錯が生じる角で交わろうとするが、センセーションはなく、あらゆる個性の圧迫によっておし砕かれ、次第に遠ざかり愛すらも見えなくなっていく。

「自分自身の支配を維持するという唯一の擬似的な欲求に最終的に帰着するさまざまな擬似的な欲求を常にでっちあげるだけだ。だが、自分でも知らぬまに経済に依存していた社会的無意識を超え出るという限りにおいて、自律的経済は、人びとの深い欲求から永久に分離されてしまうのである。」

「意識されるものはすべて使用される。意識されないものは変質せずに残る。だがそれも、ひとたび自由になれば、瓦礫と化してしまうのではなかろうか?フロイト」

「この世において為すべきことはただひとつ、そこから早く抜け出すことである。ボスュエ」

対使用の依存関係から抜け出すことが出来ず、使用するもの、使用されるもののは倒錯された欲求によってこの世から抜け出す術を完全に失う。

統合されたスペクタクルは、実態をより深刻化したものとして我々に襲いかかり、擬似的欲望は地立した自己からも遊離し、全くかけ離れたところで、自己分裂した仮象実体は想像も及ばぬところで落書きを行ったり、暴力に耽ったり、意識外のことをする。

仮象実体は操作する術も操作される術もまるで持たない、操り人形の人さえも切れ、それらは緻密性をまるで欠き全く不目的に暴動の仮象を積み上げ、ある臨界点に伴って、それらは記号的なものしか有しない。つまり、文章構成、会話構成能力を失った不毛な痴呆として、断片化された情報を発し続け、欲望のイメージ、腐乱のイメージ、破滅のイメージなどなどを総体の意味性としてではなく、記号としてすべて発し回収される。

コミュニケーションはかなりの破滅性を有しており、ある次元で、完全に自己とも分離され、その有限的主体が死に臥した後でも、勝手にその主体との意図とは反した行動までも起こすようになる。これら規制から脱した復讐や光の本性への回帰などの属性を孕む仮象実体は地下墓地の人魂のように、あらゆる者を追求し、波乱へと導く生肢体となる。生肢体は何ら意図的な活動を行うものではなく、常に断言される記号の数々は人類全体の記憶の喪失までも発生する犯罪的な危険性を有し、悪罵を唾棄を残忍さを、その声は地球の表面から一斉にわき起こり、収拾する術を誰であっても持たない。

絶叫、轟音、生肢体たる三者性の分裂した反乱者たちは、人間が現実態なる未完成の人間を造り、馬鹿げた喜劇の終局を飾るものとしてこの世に君臨する最期の社会的事象であるように思う。何故なら、生はどこにも見つからず、全くに幽閉され、生が死ぬ以上芸術も死にただの記号的仮象としてそこにすべて枠を納めるからだ。

「消費の序列における地位の低さを空想上の存在論的優越性に変形する務めを負った時代遅れの偽の対立や地域主義、人種主義が再生してくるのである。スペクタクルの存在は集中した形態になるか、拡散した形態になるかどちらかである。」

集中した形態、拡散した形態は実証の目処を絶たず、集中と拡散はそれぞれの孤立的な結合からより進化し、すべてにおいて均質化され統一される。

身分、序列、地位の尺度は、より空想上のものとして、現実性のある実態の様相から脱する。メディアの集中も自己の仮象的拡散もすべて画一的に変化を遂げ、ミキサーのような坩堝にそれらアイデンティティは放りこまれ真理はどこにも見当たらなくなる。

コピーしたものそれぞれが、擬似的な優越性を相乗させ、撹拌し、擬似的な身分を発するようになった個人は、物象化した神仏性をそれぞれが保つように努力し、それらの擬似的生の膨大な繁殖は、無意識的な特権意識の中に芽生え、偏狭で空疎なものをさらに加える。これらの屍と腐敗とたちのぼる臭気とが、生を豊かに養っているものでないのだから、鼓動していること、理性の統制を投げ捨てて、仮象的な現象のうちに、目にも見えぬ早さで逃げ込み、自然法則の適用除外に乗っ取り枯れ葉剤をまき散らし、自我を尊厳を深く軽蔑する。

「スペクタクルのなかで威信をふるっていた事物は、この種の消費者の手に、そして同時に他のすべての消費者の手に落ちる瞬間に通俗的なものになる。この事物が本質的な貧しさ、それが社会で生産された時点での貧しさから当然のものとして受け継いだ貧しさ、を暴露するのはずっと後になってからのことだが、その時には既に、その事物は、体制の正当化と承認の要請とを支える別の事物になってしまっているのである。」

実際の威信、妄信は、この通俗さとの大衆同一的な変革性と接続する、つまり、あからさまな通俗さは拒否する傾向を見せる一方で、実際はそれに妄信的に加担したものとなる。

事物は仮象としての機能しかもたないが、その仮象は人間関係にとってかわり、間に挟まり、それを補完するものとして社会に要請される。その仮象は常に破滅性を抱え、個人はそれを常にかなり意識はするが、なす術もなく類似したものとして、相当数の仮象を蓄積し抱えることとなる。

ホログラムの中で無数に接続する光線のように、ある対象物を通すと、変化し、それは日ごとの興味対象、フェティッシュ、欲望、などに自在に姿形を変え、ありもしないものを見たり、ありもしないものに興味や欲望を抱いたりもする。

主体が個人である以上、何処にも暴露はされないし、血の凍るような凍結表象と、不動の定理の厳密なる連携とによって、絶えず維持され、永遠の公理と仮象文字との間を往来する、すべての道はここで絶たれる。

仮象実体は複合的に繋がっているが、一方によって消失されたり、他方によって消失されたり、通路を切り開くのはすべて仮象実体に委ねられるのであるから、境界を犯して殺し続けて、誰一人名を知らぬ者に対して、抵抗を試みることも出来ない。

意志が著しい情熱を注いで、無慈悲なる自己の解剖力のみを高めて、仮象それ自体を寛解させることには至らず、仮象と仮象とを照らす光線は誰一人名を知らぬものに対して、意志なるものを蓄積し続けるわけであるから、膨大に照射された過剰な光は、常に未知なものにさせるし、動悸の過剰反応効果、立体的な共同体空間の構築、それら破滅が重大で罪であるものとしても、永遠の別れを告げることも、自ら接続を断線することは出来ない。

撒き起こる暴動も革命も誰一人名を知らぬ主体に対してである。その攻撃は矛先が分からないわけであるから、同時に身も知らぬ自己に対しての攻撃にもなる。精神的には真っ暗である事柄を抱え、悪夢から醒めたように、ふるえながら、傷だらけな姿で、さらに主体無き犯罪を逆説的に凄める。

「歴史の主体とは生きた人間以外ではありえず、それは歴史のなかで自己を産出し、歴史という自己の世界の主人にして教師となり、自己の働きを意識した者として存在するのである。」

意識はすべてにおいて隔絶される。歴史の主体の中で自己を産出することは、過剰な自己地理を増やし続けるし、個人と他者との地理的距離を破滅させる。最初、そこでの働きは無論のこと「接続されているので」認識されたものとしてあるが、それら自己産出の過剰性による仮象によって覆い隠され、常に膨大に産出する波乱を予定調和として、その危険性を常に抱えているわけであるから、それら仮象は光によって対象を変化させるし、「昨日は確かに自分であったものが、今日は確かに自分ではない」と精神的苦痛を味わい、悪夢の軍制を産み出して、ただらならぬ仮象を照らす光の気配と、不吉な息づかいが徐々に差し迫ってくる。

不意をつかれて、次第次第に迫ってくるこれら仮象から脱れるものはいない。実際に、またそれを知りたいとただならぬ渇望をもって、その永遠の公理と実態とともに、人を恍惚とさせつつ何とも説明し難い誰ひとり名を知らぬ主体の呪いによって、惹きおこされた結果を、誰ひとりとして確かに分析するものはいない。

なるほど、容認された実践は、われわれを誰も名を知らぬ主体に憎悪を抱き、反動をもたらす権力へとただちに集団を形成したが、それは出来事ではあり得ない。それを率先して行う、オーガナイストがいるにしろ、ただちに仮象へと蝕まれ、自分が何をしているのか説明出来ないからである。

無目的に動かされ、教義に従う信徒もいないわけであるから、そこに共有すべき目的も闘争する対象も、何であるか識別出来ず、砕けた知性の霧を通して、判別出来ぬ光の実在は、無意識な欲望の渦巻きの中に、情報と情報とを結合し窒息させる沼の中に、時々非照射として仮象を照らす光の実在を垣間見ているだけにすぎない。

追跡、また執拗、たちどころに発する共同体の均質的党派は、赤く燃え残っている造物を再び燃え上がらせるためだけにすぎず、そして確証できないジレンマとともに、疲労のあまりに発する仮象は、衰弱のためにしゃべりつづける自動人形のような身振りを交錯させる。じりじりと仮象のために分裂した自己を自らの手でなぶり殺し続け、判別出来ない、打勝ち難い数々の困難に、苦渋を舐め、次第に足が折れ、一つ一つの言葉使いにそれが如実に烈しく顕われ、また問題に立ち戻るさいには、既にあなたは違うあなたへと忠誠を示しているだろう。

「思想だけが世界を救うことが出来るとしても、そのための思想はもう必要ないだろうという考えがますます多く生まれてきた。私も、誰であれ、新しい思想を発明出来るとは思わない。時代はもはや思想のものではなく、事実と行為のものなのだ。」

「無数の息子の亡霊たちよ、そろそろとんでもない虚構にけりをつけるときが来たのではないか。クロソウスキー」

思想はすべて全体の歴史に焼き捨てられた。歴史はしたがって個人が主体となって動かされるものである。だが、これら人類の食肉的魂の魔術的オブセッションによって思想は虚構の中の一要素として吸収され、歴史はほぼ全体としても何も個人は実践する術を持たない。手はない、足はない、脳はない、目はない、したがって何処へいるとも判別出来ない。

飛び散った器官の数々は、情報と共に全体が器官としてその機能性を確保し、全体が仮象実体と成り果ててしまった社会では、事実と行為ですら、すべて力を得ずして楽に回収される。

泥と血と情報の混合物の中に、身も護れず死んだように横たわっている我々を、誰も尊重はしなかった。こんな陰気な喜劇を誰に見せようというのか?我々に馬鹿にされた至高神に?憂鬱そうに、嫌けざし、うす気味悪く、修道院の墓穴に埋葬されて、戦慄すべき仮象の波に絶えず突き動かされ、いり乱れぶつかりあう、手と手を不透明で表象としての象徴のままに、それら贖罪の円陣は今は亡き無限の光輝の破片を探し求めている間に、彼は人知れず墓の彼方に降りていった。

われにもあらず、身をひき、絶えず接吻するようにすすめようと、他の一人がそうしたのだから。別な声、何か知れぬ本能で、造物をつくりつづけ、脱けだす術は太陽が地平線の中に沈むのを待って、忘れられた。

誰かが出ていくのを見られでもしたら大変なことになる、我々の身は常に危うく、天の境界を犯して地上に舞い降りるに至らしめ、光を知りたいと思ったのだろう。これら本能的なエートルの光学的暗唱の数々が、彼岸に彼岸を呼び、人類のすべてを苦悶させながら、絶命させることが出来たとは!刑罰のような情報的歯車仕掛けに長期に渡る歴史の構築に実在はすべて粉々にされた実際に墓の彼方にある生は、甦生(リロード)する術をすべて機械に委託し、悪魔が惰眠から目覚め集合した記号の同勢に演説をぶって、欲望を鼓舞させ、すべての生を汚らしく、身を落とさせ、これら造物の記号的枠組みによって骨組みをしゃんと立て直し、勝ち誇り、意気揚々と突っ立って、すべてを仮象の中へと、偽造した生へと転生させた。

運動家、革命家、テロリスト、独裁者たちは、こうした枠組みをさらに悪化させた偽造の生をもってして再構築したにすぎない。したがって、行為及び実践は偽造した生の外へと体感させるものでない以上、何も本質的変化は望めない。

「せねばならないことは、自分自身を分離の世界から徹底的に分離したものと認めることだけである。」

もはや仮象実体の統合からは誰も逃れることは出来ない。したがって、仮象内部から何か爆発的契機を伴って、例えば歴史的事由など、の転機を境にして、徹底的にこけおろし、分離したものと単に認めることだけではなく、仮象内部に侵入し、嘲るような反射光で照射の出来の日に通じて、暗黒の情報路の行方を封鎖し、擬似的生に致命傷を与えたりするものは、望むべくでもない、雷鳴をとどろかせ、警告を発する何かしれぬ本能で、一条の燐光を、仮象そのものにベトベトに張りつかせ、自らを記号的一要因として仮象そのものとして確定的に公認し、これらの逆算により内部を被爆させるように、シチュアシオニストのように状況を構築することではない、何故なら現在は個すらも観察される以上、それさえも情報の枠組みの中に囚われるからだ。

これら状況そのものを、あらゆる悲惨と危険にさらして、熟慮に熟慮を重ね、情報の流通そのものを逆に促進させ、これら過剰の記号的奔流によって、自らを堪え難い記号の一部として、社会に地立させること。

情報の撹乱活動は、著しい爆発性を伴うように、予め記号と記号それぞれに生を与えるきっかけを忍ばさせ構築する。機会あるごとに私は記号であることを叫び、断片の文体を飛翔の美しさとの間に、理想可能な表象を根づかせ、激痛の仮象であることを誇示し、幻滅から醒めた目を気のむくままにポエジーとして流転させ、仮象そのものを、生であることに逆転的に転化させ利用する。

つねに実在の感知できない世界にいる以上、自ら記号を引き寄せ、仮象を合体させ、再領土化において実在がわからないところに留まっていることを承諾し、記号的亡命者となること。これはドゥボールの言う漂流ではなく、仮象を手元に集積させ、反逆的に愛を威信させ、ある波からある海へと、瞬時に仮象を移動させることで、逆転的に情報そのものを転覆させる記号の渡り船のようなものである。

それら記号を異なる価値ある意味性へと転用させ徹底的に記号的生として固守することで新たなタイプの生ある仮象的主体を召還し構築する、そこに唯一芸術の可能性が芽生えるだろう。

「あらゆるレヴェルで資本主義の疎外がますます強く推し進められ、労働者が自分自身の悲惨な状態を認識し名づけることがますます難しくなるために、労働者は自分の悲惨の全体を拒むか、何も拒まないかという二者択一のなかに置かれる。その時、革命組織は、疎外された形態で疎外と闘うことはもはや不可能だ。」

個人の疎外が疎外と闘うことは、名づけ難い自動修正レベルでの世界同時性の情報統制に必ず囲まれる以上、その存在をまずは認識し、それの中に取り込まれることを受け入れ難い真実ではあるが、受け入れ、自ら仮象実体として、その中で記号として誇示することで地理的に横断せねばならない。

もはや情報から逃れることは不可能である、世界的に同時的に歴史は進行する以上、むしろその歴史を誇大化したものとして一端容認し、その中で闘争していかねばならないだろう。これらを実践レベルなベクトルに移行させ、それら擬似的な仮象を意義的で生ある仮象へと転用し、それが仮象にすぎずとも意義なき仮象を否定する方向で撤廃することはもはや不可能であるから、むしろ疎外化されるべき仮象を意図的に歓迎せねばならないだろう。

これら詩的なる荒唐無稽の功績が、現に恐怖で満たしている仮象を正確に断言するには、巧妙に姿を変え、それぞれの時制で、内乱と生をまき散らす。これら光の粒子の実在を取り戻す為には、情報自体を手にとり、それを変貌させ、神秘的に予期もしない途上で、いかなる見地においても全感覚において乱調させ、それ自体を未知なるものへと、正しい概念で置き換えることである。

謎を解き明かすような実践方法をむしろ簡単な様式へと転用させ、閃光のようなものはなるほど持っている、現実を梟のような目で見抜き、それぞれの意図をポエジーの構築の領域において、威厳に満ちた眼差しで、密やかな光学組織の中へ向かっていくのを開拓し、撒きあがる仮象の埃の中で夢中になって、生気を蘇らせる。

仮象の無効効果を実践し、不格好な悪性を、幸福だと感じられる普遍性へと、実在なるものへと帰還させる。つまり仮象自体を手に取り、仮象の効能を認識した上で、悪性を取り払い、再構築すること。

「文字とともに、生きた者どうしの間の直接の関係のなかではもはや誰も持たず、誰にも伝わらない意識、すなわち非人称的な記憶という、社会の管理者の記憶が生まれたのである。だが、この歴史は人びとから離れた場所で展開し、消滅する。この歴史は共通の現実から分離されたものであるからだ。」

「文書は国家の思想であり、文庫はその記憶である。(ノヴァーリス)」

非人称的な記憶、これは同時に社会の管理者の記憶からも逸脱し、全く関係のないところで生起する。これらの場所はひとつではなく、多数存在し、全体文字の中にそれぞれで複雑な網目のように歴史の主体を瞬時にテレポートさせ、エジプトであったものがモロッコであったりロンドンであったりする。これら同時性の操作を握るのは、意志性とは反した生肢体であり、彼らは移動することも考えることも目的も持たない故に、記憶自体を爆発的に相乗させ得るから、それらを絶えず取り逃がして放っておくままにする。

痙攣のような伝播性は、その機会がきたときには歓喜し、我が物にし、自分の再領土を一層拡げる方法を考え、何か変化を勝ち得たに違いないと心強い慰めを得たとき、常に生を堕落させる。このいたるところ生肢体で覆われた場所を指差しながら、荒廃した都市の敷石の下の砂浜なる場所で流れ続け、犯すはずであった三重の罪を等しげに流れるままに全体に罰し続ける。

仮象実体はますます疎外を深め、私なるものを他に再発見しひと時の救いを手にし、執拗な生命力でぴくぴく鼓動し続けるが、ここにある銀河の実状は星の軌道をものにするわけではなく、炎を燃やす炭坑夫のように重労働に犯され続け、手が汚れ、何が何であるかまるで分からなくなる。

「永遠は、円環的時間の外に出た。だが、この永遠は円環的時間それ自体の彼岸であり、それは、時間の不可逆性を抑え、歴史そのもののなかから歴史を削除し、円環的時間が破壊され廃止された純粋な点のようなものとして、不可逆的時間の反対側にその身を定めるのである。」

「そして過ぎ去る時間を使って、われわれは過ぎ去ることのない永遠の中に入るだろう。ボスュエ」

それ自体の彼岸、すなわち仮象所有の時間制は常に0と1を混合させ判別のつかない結果となる。始点、終点を定めず、それぞれ仮象実体が所有する時計は常に自らの欲望の針を刺し、仮象を受け取り、実象を時間の外に放り投げる。

有と無それらは同価値のものになるのであるから、実際に目にして話しているものと、実際に目にして話していないものとの、垣根も撤廃され、私の所有は、他の所有とも交わり、空間的意志能力の破滅のようなビックバンを契機に、有機と無機で血まみれになった彗星がどこだか判別出来ない空間で燃えて実在が落ちるのを目にする。私?1であること。他?1であること。万物の根元に対して単一のものに住むもの、口にすべからざる者。彼は一人沈黙の中に済む。究極において彼は単一であり、彼以前に存在したものはいなかったはずであるのに?それを擬似的な時制的結晶によって根拠とすること、統御を支える1を仮象の空間にすべて委ねること、こうして起こる歴史の削除、すなわち全体の記憶喪失は、こうした憂慮に満ちた原初の根源的な教理審問のような、私自身に問いかける「実在」を、仮象が通り過ぎることでそれらを認識することで、すべて「数である」と実証するのであるから、常にあやふやなものとなり、「実在」そのものを仮象があることで認識下に赴き、それらが輝くように仮象なる光の化粧を施し、すべてが満ちていると錯覚させる。

錯覚の権威、錯覚の時制、錯覚の目、天地そのものをもはや重力自体を識別する尺度とせずに、すべてあなたがたが造りあげた仮象をその認識の五感へと転位するのであるから、事実そのものを湾曲し偽造し、都合のいいものへと作り替え、満ち足りたユートピア主義さらに物神主義へと、たちまちに目くらましさせ、仮象の再領土には事実存在しない都合のいいものだけを回りに取り囲ませる。

「個人の歴史的な生は常に、権力の圏内で、権力が行う闘争と権力を争うための闘争に参加することによって実現される。」

「生産の不可逆的な時間はまず何よりも商品の尺度である。それゆえ、世界のあらゆる場所で社会の一般的時間として公式に認められてる時間は、それを構成する特殊化された利害を意味するだけの、特殊な時間でしかない。」

特殊化された利害を意味するだけの、特殊な時間は常に予定調和的でしかない。あらゆる闘争も予め、物象化された賄いの死体を捧げるために、常に全く関係のないところで、あらゆる利害関係は国家に行き届くわけではなく、個人にすべて罪は降り掛かる。こういったシステムの順応性により、ほぼ全域に渡って予め虱潰しに根こそぎ生は偽造されているわけであるから、ほぼ関係のある生と接する機会は誰も持たなくなる。

あなた自身何かに怒りを感じたにしろ、何かに不満を感じたにしろ、それは偽造されたものにすぎないのであるから社会的なものではなく、常にあなた自身に対してのものである。自我組織の無意味な攻撃、転覆は、より生を苦く、関係のない地へと移住させ、そこであなた自身を見いだすことは極めて困難になるだろう。

地球上のあらゆるものが無意味に人間それぞれに結合し、あなた自身が完全に満足すべき証人として眼を携え視察し、正気にかえることも困難な以上、生命なるものか?人の心か?仮象の光であるのか?かかる性質の比較に関するかぎり、すべて同質なのであるから、我に還っても身に驚愕し、ある程度までどれに重きをおくことが、解決をくだすにあたり、混沌と不条理、憎悪と復讐、愛と侮恨の狂気の針につきさされながら、孤立した自尊心に身をつつみ、ふたたびあいまみえることはない。

日々あらたに繰り返されながらも、これら偽造の更新による同胞全体の不幸ばかりか、どうしてこれほどまでに信頼しあっているのか不思議に思う。それっきり喜劇は終わったかとみるうちに、影の化身たちは、烈しく結合することをまた欲ばむ。しかしやっぱり愛することは出来ない、触れるやたちまち額の熱も下がる腕の中に、仮象の波の中に千たびも帰ってゆく。

人間が恐怖するとき、誰かに反抗をくわえようと思案するときに、臨終の苦悩に襲われる直前にでもすべて運び去ってくれるのであれば有り難いのだが。

特殊な時間の構成は、かかる依存的関係によって維持されるであろうし、直接的に何かを破壊しふれあおうとするのであれば、すべて歯牙を剥いて襲いかかってくる!あなた自身が造りだしたもの、あなた自身の首を絞め、記号の括弧の中に幽閉され、屋上で広く空が汚れているのを見るすべて予定調和的に!かかる架空の報復活動は、威信電信混信しながら、あらゆる都市の壁という壁に、あなたの名前が発掘されるのを見届け、すべて此処で起こった出来事ではないということをその時点でしか気付けないことになる。

「時間とは、ヘーゲルが示したように、必要な疎外であり、主体が自己を見失うことで自己を実現し、自分自身の真理となるために他のものになる環境である。だが、疎遠な現在を生産する者が被っている支配的な疎外は、まさにその逆である。この空間的疎外のなかで、主体と、社会は主体から奪い取る活動とを、社会が根底から分離する際に、社会はまず、主体をそれ自身の時間から分離する。克服可能な社会的疎外こそが、時間における生きた疎外の可能性と危険とを禁止し、麻痺させてきた疎外なのである。」

それ自身で疎外された時間とは、共通の時間ではなく、個々それぞれが併せ持つ擬似的な時間である。擬似的時制は、光学的現象を促して、個々それぞれがランプの火を捕えて外に持ち出そうとする、これら同時多発的な光の時制は仮象そのものを立体空間として模索し、視力の優秀性をいささか失い、肉体は固く癒着してしまい、ほぼ総体を麻痺させ、全くあり得ないところで、全くあり得ない姿を発見することになる。

この至上の命令には主体はなく、誰からでたものでもない。墓慓銘を仮象の光で照らし続け、常に錯誤された認識をその立体空間に呼び出し、地球全体を取り囲むようにこれら呪いのネットワークは、地平線にまで固く広がる。

呵責を相乗し続けるような破滅にはもはや推理もおよばぬ領域に達している。麻痺性の磁力を持った仮象的ネットワークの均質総体化は、アイデンティティを破滅させ、自己承認すら及ばぬ、通信波乱の危機に達しているのも見受けられるし、実際に個人個人の意味の無い擬似的時制の癒着は、社会を自動的に未知のままあらゆる不逞や不正、陰謀を個人の介入の及ばない場所で自由に行える。

個人それぞれは擬似的な生を産み出すのに躍起になるわけであるから、それが社会の介入のはずだと思いがちになるし、仮象の施しは宇宙のように限りないものであったものを、一心同体に情報をほぼ満遍なく取り入れ、接続を仮象の富に拍手喝采を受けながら愉悦に疑心することなく、修辞形式の記号が自然発生的な使用のうちにその半無限制の自己修復、自己増殖のみにその行動の赴きを与え、次第にそれらは息苦しく、深い海の底のような低酸素の諸形態に身を落すこととなる。

仮象実体に刃向かう術があるとするならば、その行末を絶対的に知覚し、擬似的生を唾棄し、自らで考える機能を失わない事が肝心であるし、それら麻痺に陥る効能は社会の至る所に産出しているから、それを防ぐ術は持たない、むしろそれらを翻し、自ら生のあるところへと効能させ、鼓舞させ、積極的に飛び込み、それらを新たなタイプの主体へと変貌させるように光学的メスを用いること。自らそれらを挑発し、生命感覚をそれらに与え、願わくば惹起させられることに、虚心を真心へと、創作しようと始めているそれら諸形態を、パウロの光の召還のように、情熱を雷撃させること、つまり擬似的なものから本来の出来事に置き換えるという転用の術を持たねばならない。

メスを持って光の統一の束の間の出現をとことんまで追いつめる、数々の過失の重圧の下でさえも、それらによって一部分は窒息させられたとしても、それらに充分に生を与える程圧倒するならば、あらゆる表象を生身へと剥がして、洗練された光学的に選ばれた出来事をつれてくることに成功したならば、あらゆる仮象的干渉も生の躍動には適わず、無意味なものとなるであろう。

それら基礎的仮象実体に関して正しい生に置き換える。どんな大胆不敵なものでさえ後ずさりするように、気が狂う程冷たい声で挑発し、カオスから出現せしめてやった一存在という報復で、眼には永遠の不正を確かに象としてとらえ、狂気沙汰が発作的であろうとも尋常なる位置に戻してやり、高らかにその光の一撃で偶然だったと、興奮で疲れ果てても何度もくりかえして、ペテンを狂信の心で源なる老いたる海へと誘致させ、生の在り処を常に探求することが唯一時間の所在をあなたのものへと出来ることである。

「地理的距離を除去するこの社会は、自らの内部で、スペクタクル的分離として距離を取り集める。」

「法律の外では、すべては不毛であり、死なのだ。サンジュスト」

「歴史的な死を準備し、自らの意志によって現在から過去へと移っていく。コジェーヴ」

そこにある身体や様々な感覚を通して、横断することが出来るように、仮象たちが飛び交い、行くてを邪魔しようと拒んだにしろ、あなた自身で新たな一貫性を宿し、これらの身体様式にまだ見た事がない何かを知の感覚的に介在させ、あらゆるものを歩行速度を背に追っ払うこと。

完全な体感として刻まれるような血管の彫刻をスコラ学者たちの神学的論争のように普遍に激を飛ばし、閃光を放ちながら炸裂的実体性と闘い続ける。目がみえなくなってもいい、それは宙づりの場所にある自らの生を確かめることが出来るものであろう。

そもそも心を打つことができるのは、統合の意志、仮象の集積回路、擬似的生の包括的ネットワークの中には絶対になく、すべてそれらに敵対しているものだからである。現代における甦生のまなざしというのはこれ以外にはあり得ない。

記憶の絶対的支配者をその要塞からたたき落とすことで、唯一コントロールされない自立的生は身体を一直線に光のように駆け巡るであろうし、この世がこの世である限り、甦生を体感するのであれば唯一それら出来事によってであろうし、これらの情報回路の錯綜を抹消する過程においては通らなければならない道となる。

これら回路に取り込まれるのは幾ら抗いたにしろ必然であるから、自らの意志をまずは救い出さねばならないだろう。骨身を断つように威信乱心に他者の思念に類似せぬように独自の工夫を駆使せねばならない、そこにある生、挑発し、自らの手で直接的に動かし、窮屈に行き場を失ったものどもを全感覚の乱調によって白ずませる。

「最も役に立つエキスパートとは、もちろん、嘘をつくエキスパートである。エキスパートを必要とする者たちとは、その動機こそ違え、捏造を行う人間と無知な人間である。個人が自分の力によってはもはや何も見分けることのできないところでは、エキスパートによって形式的に安心するのである。」

これら御用学者たちは、民意を取り纏める役を演じる。無論、メディア化した個人はこれに対して反論も行うが、それはすべて様々な仮象を経て既に修正されたものである。このような事態に対して、すぐさま伝達される反論の数々はそれ自体も嘘に捏造されたものと同質である。何故なら、反論はすぐさま仮象の中で大衆性を帯び、それ自体誰に対しても固有なものではなくなり、あからさまにそれを実行に移す者は何処にも見当たらないであろうし、すべて責任転嫁を要する机上の中の闘いにすぎず、何も発信源を特定するにあたらない以上何も告発するに至らない。こうした仮象実体それぞれの存在自体が既に高度化された情報資本主義のイデオロギーの動力そのものなのである。

イデオロギーを維持する力は国家から仮象実体全体にその主体は変貌した。無力にも何もする気がない個人は、異常ともいえる排他性を帯び、自らのみがその情報を保持し優秀であるという情報のイデオロギーに洗脳されている。

現実から隔離され何も起こらないところでは、誰も何もする気はない。あからさまな異次元はゲーム感覚に、取り残されたところで起こり、ボタンを操作するように、電子化され、そこで息をすることは、常に動力の過剰化を引き起こし、自らの存在を片手間に増やし続け、互い違いに攻撃し合い、慰め合い、至る所で孤立を感じなくなるが、常に自らを殺している為に、場所性や行動を意志のままに維持出来ず、ますます籠の中へと居座る。


あなたは自らに類似した擬似的生の維持活動の総体である。

あなたにはモデルにするオリジナルというものがない。

あなたは一見したところ現実と相関性を持つが、現実をより良く見せるためだけの機構であり、そこには決定的な壁がある。

あなたは権力者をより世論に左右されない不動のものとする支援者である。

あなたは現実ではなく、その仮象内でのみ領地を争う。

あなたは普遍ではない。

あなたは全体の主体をなくさせ、仮象それぞれが主体となった現在の歴史を担う進行媒体である。

あなたは出来事を正しいありかたで感知しない。

あなたは身体を持たず、生死を持たない。

あなたは存在を殺すが、存在を生まない。

あなたは現実から衰退した未来の様相を予知する薄汚れた鏡である。

あなたは多角的なイメージによって構成される故に、一定のヴィジョンがない。

あなたは一定のテーマ性がなく、倒錯を無闇に蓄積する自動機械である。

あなたは思念を離れた所で遠隔操作し、自らで収拾出来ない事柄を引き起こす。そして引き起こした事態には無頓着である。

あなたは遺伝子操作された、情報のイデオロギーそのものであり、またそれを維持する動力である。

あなたは実在を持たない、生肢体である。

あなたは個々の存在概念を現実とは全く相反する新しい形態として流動的なまま確立する。

あなたは仮象の中でのみ意義を見いだし、仮象のみに没頭する。

あなたは情報を常に変化させ、一定に留まらず流転させ、その発信源を持たない。

あなたは常に主体性がなく、一方的な通達を行う。

あなたには一定の主体がないので、犯罪を引き起こしても、告発されない。

あなたは可能態でも現実態でもなく、質料のない第三の造物に似た類似実体である。

あなたは歴史を産み出し、世界を同時的にコントロールするが直接的には介入せず、問題が起こった時に解決出来ない。

あなたは誰でも例外なく簡易的に社会参戦させるが、その機能はすべてバーチャルである。

あなたは環境汚染とは異なった、新しいかたちの情報の公害である。

あなたは意義的機能を常に不全させ、表象の利便のみを追い求め、生をこれ見よがしに偽造する。

あなたは第三者の介入によってハッキングされ、主体からの操作を離れる。

あなたは自らの行いを善きものであると錯覚させる。

あなたはその姿形を瞬く間に変貌させる。

あなたは思念を無数に産み出し、常に生の在り方を堕落させる。

あなたは認識そのものを錯誤させ、あらゆるものを擬制の時間に覆い隠す。

あなたは情報を統制し、それぞれが発するある一定の均質的総意を構築する。

あなたは革命を起こさない。集団を決議しようとも、それ自体は孤立されている。

あなたには文体がない、常に断言的で、記号的である。

あなたは真理を判別する審判を持たない。

あなたは擬似的な富をつくりだし、それら富によって囲まれるのを心地よさ故に好む。

あなたは行動をしない、接続するだけの生きながらの肢体である。

あなたは出来事をでっちあげ、自らをその主人公とする。

あなたは現実に似ているが、現実とは最も遠いペテン師である。

あなたは一個の有限的主体から、限りなく無限に近く数まで産み出すことが出来る。

あなたは数学的に算出出来ない。

あなたは自然的現象ではなく、無機的発作である。

あなたは芸術家であり、道士であり、説教を行い、偽造の生を同列に生み続ける。

あなたはその個体差を確立するにあたって、差別的な空論を行うが、その議会を確かに審議するものは誰もいない。

あなたはすべての意欲を失わせる。

あなたはそれぞれで結合し、均質的な共同体をつくり、根城にする。

あなたは生の在り方を認知せず、真理はなく、芸術そのものの生命を絶つ。

あなたは集団を好み、個人を排他する。

あなたはテリトリーを持つが、それは常に欲望を模造化した抑制なきものである。

あなたはデリカシーがなく、自らのもののみを絶対とする法王である。

あなたは常に自分の父よりも、その時代の最も稚拙なものに似る。

あなたは個性、このもの性、特異性を持たない。

あなたはイデオロギーに従って常に増やされ続けるが、臨界点に気付かない。

あなたは息子を持つが、先祖を持たない。

あなたは物質を宣伝し相乗させ、実在を抹消する。

あなたはオリジナリティーのない、総体化された均質のイデオロギーである。

あなたは仮象間において仮象的現象自体に反抗するものであっても、逆に仮象を相乗させる結果を生む。

あなたはそれぞれで会話するが、何も直視的影響は引き起こさない。

あなたは個人それぞれに根づくテロルそのものである。

あなたは情報主義社会が進化するにあたり、その比例に応じて増殖する。

あなたは都市を取り囲む架空の荒廃した建築物である。

あなたは欲望が転化された形でまるで見境のなく自動増築する、この世の最も汚い塵溜めを建築する。

あなたには境界がなく、誰によってでも侵入は容易である。

あなたは許可を得ず勝手に盗み、最も醜いかたちで現実を盗作する。

あなたは人のないところに、人に似たものをつくるので、クローン的である。

あなたは事実を隠蔽し、虚偽を物象化する。

あなたは仮象を妬み、独自の共同体間においてのみ権威的で階級的である。

あなたは外を認知しない。

あなたはそれぞれで監察し合い、それぞれを窮屈にする。

あなたは考えず、知を探求しない。

あなたはイメージによって可変的に操作され、偶像を崇拝する。

あなたはそれぞれでただちに心地の良い再領土を構築する。

あなたは保守的であり、歓迎されない他者を徹底的に憎む。

あなたは自己を分裂させ、コミュニケーションを不能に陥れる。

あなたがいるのは一個の狂気の坩堝であり、その中にすべて放り込まれている。

あなたは情報資本主義社会において、最も体制を維持する高度な形のイデオロギーである。

あなたは実体に常に類似するが、その実体は常に離れた所にある。

あなたは情報をそれぞれで伝達し、その結果均質化させ、捏造、偽造する。

あなたは仮象同士で憎み合い、争うが、抹消する術を持たない。

あなたは生のある現実から隔離され、もう一つの生を用いて偽造した現実を構築する。

あなたは社会を本質からは観察せず、主義、主張を互い互いに似せながら剽窃し合う。

あなたは真意のない一個の辞書である。

あなたは逃避し、積極性を持たない。

あなたは二次的、三次的に、生や情報に伴った犯罪を助長する。

あなたは物事の判別を不可能にし、善悪を無きものにし、感覚をすべて麻痺させる。

あなたは呪いを相乗させ、甦生を不可能にさせる。

あなたは名前を、それぞれを識別するコードを持たない。

あなたはそれを産み出した主体が亡き後でも、存続し続ける。

あなたがいるのは人類すべてを取り囲む魔術的ネットワークであり、誰もが例外なく仮象の参加者である。

あなたは死者を歓迎しない。

あなたは文化を均質化させ、価値をすべて同列に置く。

あなたが例え徹底的に拒んだにしろ、現実の何処へいようとも、強制的に見させられる。

あなたは現実には殺されない生の大量虐殺を行うものである。

あなたは人類すべてが強制的に参加させられ、全員でもって演じる喜劇を演じる。

あなたは誰の手によっても把握することも捉まえることが出来ない。

あなたは情報の過剰な乱用によって、人類そのものを記憶喪失にさせるウイルスである。

あなたは現実を隔離させる中毒性を持ち、感染するためのウイルスを爆発的にそれぞれが伝播する。

あなたは現実の時系列に伴って、段階的により深刻化していく。

あなたはスターを祭り上げ、そのスターに自らを投影する。

あなたはその一端が白痴であるなら、その全体が白痴である。

あなたはメタフィジックで無作為な動乱である。

あなたはイメージに取り囲まれた映画の登場人物である、家畜小屋の中での。

あなたはその生を簡単に書き換えられ、また簡単に死なせることも出来る。

あなたはこの世の稚拙で取るにとらないものすべてを煮詰めた決して陥没しない要塞である。

あなたは古典、慣習、法令、その他伝記を誤ったかたちで満遍なく浸透させる。

あなたは深海に水没し、窒息した船である。

あなたは自らの意志に反して、想定外の行動をとる、常に自らの加害者である。

あなたは一端汚染されると、治癒が不可能である、不治の病である。

あなたは著しく快楽的であり、意図を持たず、快楽のみをその原動力とする。

あなたはその中においては、すべてが売り物として扱われ、レッテルを貼られる。

あなたは独自の態度、厳格さ、尊厳を有しない。

あなたは成長せず、深化しない。

あなたはそれぞれで何をしているか分からず、自己判別出来ない不能者である。

あなたは盲目であり達すべき有益な目的性を持たない。

あなたはアイデンティティのない、錯乱した情報の切れ端である。

あなたは虫のように人間それぞれの意志を食い尽くすための歴史的現過程である。

あなたはすべてシステムに従順であり、機械的である。

あなたは知らず知らずのうちに自己を堕落させ苦しめ殺す。

あなたは言葉から始まり、分有された情報が発端である。

あなたは生の偽造を経て、芸術や哲学を永遠化させる目的があったが、神が永遠化されない現在においてはその目標を失った。

あなたは感覚を不能にさせ、身体能力を不全させ、地下へと潜らせる。

あなたは存在せず、有と無を全くの同列に基礎づける。

あなたは無限であったものが有限になったときがその始源である。

あなたは地理的距離を隔絶させ、すべてを同じ位置に置く。

あなたは造物よりもさらに悪化した欠陥的造物である。

あなたは世界の不完全的循環機能をより、さらに一段階悪化した状態を示唆する。

あなたは人間の目でその状態を確かに特定するのが困難な多層的錐体である。

あなたは断片的であるために場所がなく、何ら出来事にあたらない。

あなたは言うならば人間それぞれが神になったと過信して産み出したものである。

あなたは時間からは決定的に疎外されている。

あなたは本体がなく、膨大に絡み合った線が複雑に混信している判読出来ない全体文字である。

あなたは異次元ではなく、現実に類似した擬似的なすべてである。

あなたは警告を何も促さず、均質化した共同体のぬるま湯の中ですべてが進行していると融解する。

あなたは危めることをせず、自らを犠牲にせず、体験をしない。

あなたはすべて受動的であり、行動主体ではない。

あなたは仮象によって守られる。

あなたは物質的に満たされるのを好む。

あなたは自殺しない。

あなたは物事を何も発展させない。

あなたはイメージの錯綜を過る。

あなたは壁を間に構築し、傷つくことを恐れる。

あなたは沈黙せず、無意味に発する。

あなたは古来から現代において最も生を堕落させた擬似的生の在り方である。


あなたは無限ではなく、擬似的時制の光を操る。

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